満員盛況でした 『レコードで聴く関東大震災』 「横浜で交差した音 日本篇」

 昨日、横浜市図書館創立90周年を記念して行った「横浜で交差した音 日本篇」『レコードで聴く関東大震災』は、満員盛況で終了できました。
 お忙しい中、栄図書館にお出でくださった皆さんに心から感謝し、また素晴らしいお話をしていただいた岡田則夫さんには、心からお礼いたします。
以下に、昨日の曲目を書きます。

1 『君が代マアチ』    吾妻婦人音楽連中  1903年
  この吾妻婦人音楽連中とは、新吉原の芸者によるブラスバンド。レベルとしては、今の小学校のバンド以下だが、明治時代なので、それなりにすごいとも言える。商業的グループで、公演をしていたらしい。

2 『秋色種 長唄合いの手』  立花家橘之助
 橘之助と言っても、男ではなく女性で、自身は浮世節と称し、三味線、長唄、義太夫何でもできた天才的芸人。私は、山田五十鈴主演の『たぬき』で知ったが、あるCDで聴き、ジャズのようなスイング感に驚嘆した。

3 『滑稽・蕎麦屋の噺』  快楽亭ブラック
  ブラックは、オーストラリア生まれのイギリス人で来日し、横浜でジャーナリストの父を継いでいたが、落語家になり、「外人タレントだいい一号」として人気を得る。

4 『元祖かっぽれ』  豊年斎梅坊主
  梅坊主は、大道芸人の人気者で、伊藤博文らの前でも、その芸を披露した。
  大正15年12月25日、大正天皇が崩御された。そのとき、イギリスBBC放送は、日本を紹介する音源として、上の豊年斎梅坊主の『かっぽれ』を放送した。日本のフォーク・ミュージックの紹介としては、適切だったわけである。

5 『東雲ぶし』   法界連
 東雲節は、東雲楼の芸者がストライキを起こしたことを歌ったもの。
 法界連とは、街頭ミュージシャンで、尺八、月琴等で賑やかに歌を歌う連中で、明治、大正時代には盛んだったが、次第に衰微して行く。
 ここまでは、1903年にイギリスのグラムフォンの録音技師フレッド・ガイズバーグが日本に来て、当時の日本の大衆芸能のすべてを273枚の原盤に収録したものから。
 これが日本最初の商業的レコード録音であり、このとき通訳、演者の選定、交渉に活躍したのが、イギリス人落語家快楽亭ブラックだった。100年前の大衆芸能をリアルに聞けることは本当に驚異だが、私たちはガイズバーグとブラックに大いに感謝しなくてはならないだろう。

6 『オッペケペ』  川上音次郎一座  
 このガイズバーグによる「出張録音」の3年間前、実は日本人がレコード録音していたことが約10年前に分かった。
 1900年のパリ万博に川上音次郎一座が行き、公演で大好評を得たが、このとき一座の者が、フランスで録音していたのだ。
 ただ、これは日本では発売されず、またこの録音には、川上音次郎と貞奴は、別のお座敷に行っていたため、収録されていない。

7 『唱歌・復活』  松井須磨子  1914
 「カチューシャかわいや、別れのつらさ」で、トルストイの小説の劇化『復活』の中で歌われたもの。
 当時大ヒットしたそうだが、岡田さんの話では、この京都のオリエント・レコード盤は極めて数が少ないのだそうだ。
 松井須磨子の歌は、到底上手いとは言えないが、当時芸者や女義太夫など、プロの歌手しか唄を歌う習慣がなかったときに、言わば素人の歌手が歌ったことが新鮮で、大ヒットになったのではないかと私は思う。AKB48みたいなものか。

8 『ジンジロゲとチャイナマイ』  秋山楓谷と秋山静代  1920

9 『船頭小唄』 鳥取春陽  1921

 この2曲は、街頭演歌師で、主にバイオリン等の伴奏で歌うもので、「歌本」を売って商売としたもの。
 岡田さんが、コレクションの中から歌本の実物を持ってきていただいたが、短冊状の小冊子で、表紙の裏に大正琴の数字譜が付いていて、さらに歌詞が書いてある。
『ジンジロゲ』は、1960年代に森山加代子の歌でヒットしたが、元はインドの歌で、明治時代からアジアとの交流があったとは、極めて意外。

10 『時事 大震災難物語』  桂小文冶  1923年10月

11 『講談 大正震災記』  神田伯山  1923年11月

12 『被服廠の哀歌』  石田一松     同じ

 この3曲は、関東大震災のときに、実際に被災した桂小文冶、神田伯山によって語られた実話であり、高座、さらにレコードによって全国にまで普及したのである。
 なぜなら、当時、テレビはもとより、ラジオもない時代で、マスコミは、新聞と雑誌しかなく、ナマの声が聴けるレコードは、一番リアリティのあるメディアだった。
 二代目桂小文冶は、私も憶えているが、小柄な飄々とした関西の落語家だったが、長く東京に住み落語協会の副会長でもあり、関西落語を演じていた。
 その彼は、神田で家族と共に被災し、徒歩、列車等で命からがら中央線で大阪に出る。
 そこで新聞記者に囲まれ、インタビューを受け、それは9月9日の大阪朝日新聞に掲載される。
 それを見た、住吉の日東レコードが彼に収録させ、翌月の10月新譜として出したもの。

 神田伯山も『清水次郎長伝』等で有名な講談の名人で、やはり下町で被災し、上野等を彷徨する中で、被災した知人等に遭う。
 さらに、新喜劇の曾我廼家五郎は、震災を劇にして、それを独白のレコードにしたとのこと。
 実際に聞いてみると、やはりすごいリアリティである。
 今回の東日本大震災も大変だったが、関東大震災は、東京、横浜という大都市で起きただけに比較にならないスケールだったことがよく分かる。当時の人口約400万人で、10万人が死んだと言うのだから大災害だったわけだ。

13  『復興節』  斉藤一声   1930
  震災は、大打撃だったが、東京の都市計画の実施を中心に改造と再建は進み、昭和5年には、「帝都復興祭」も行われ、その頃多くの歌手に歌われた曲で、阪神大震災のとき、ソウル・フラワーユニオンも歌った。
  斉藤一声は、街頭演歌師。

14  『アラビアの歌』  二村定一  1928
  昭和に入り、日本でも音楽産業が発展し、ジャズ(今のモダン・ジャズのことではなく、クラシック以外のすべての西欧音楽をジャズと 言った)も入ってきて、カッコいい音楽としてジャズ・ソングが都会では流行する。
 二村定一は、その代表で、歌も上手く人気を得る。エノケンとの共演も多く、今もエノケン映画で見ることができる。

15  『昭和3年 御大典ラジオ中継』  大阪放送協会  1928
 昭和3年の秋、新天皇(昭和天皇)の即位の儀式「御大典」が、京都で行われた。
 その際の模様は、ラジオで全国中継された。
 妙に甲高い不思議な抑揚のアナウンスで、今では大相撲の場内放送や北の国の放送でしか聴けない独特の調子で、松田アナウンサーだそうだ。

16  『歌う弥次喜多』  古川ロッパ・徳山  1935
  古川ロッパは、戦前、戦中、エノケンを凌ぐほどの大喜劇スターで、明るく楽しいコミック・ソングを多数歌っている。
 これは、舞台、映画でもヒットした『歌う弥次喜多』で、コンビの徳山は、『隣組』『愛国行進曲』等の真面目な曲も歌った万能歌手だが、こうした歌も上手い。彼は、藤沢生まれで、神奈川のご当地歌手と言える。

17  『理由なき解散』  小泉又次郎  1937
  昭和12年、林銑十郎内閣が突如衆議院を解散したとき、野党の民政党の有力議員だった小泉又次郎議員の演説。
  彼の孫の小泉純一郎首相の「郵政解散」は、理由ある解散だったのだろうか。戦前は、テレビ、ラジオの政見放送はなかったので、各党はレコードを作って政見を訴えた。

18  『煙草屋の娘』  岸井明・平井英子  1937
  戦前のコミック・ソングの一つ。岸井は、アーチャンの名で知られたデブ・タレント。平井は童謡歌手の第一人者で、この曲の作者鈴木静一と結婚した。鈴木は、黒澤明の『姿三四郎』、マキノ雅弘の『次郎長三国志』等の映画音楽の作者でもある。

19  『憧れのハワイ航路』 岡晴夫  1948
  戦後、海外旅行は憧れで、アメリカ本土は遠い夢で、せめてハワイが庶民の願いだった。この歌にも、「世界篇」のときにやった、西本信夫と雨宮タツ子の『パラダイス・ホノルル』のようなハワイへのエキゾチックな憧れが表現されている。

20  『アゲイン』  美空ひばり  1954
  美空ひばりは、その初期には、ジャズも沢山歌っていて、その最高作の一つ。
  世界篇のラストの『上海』がアップ・テンポのジャズなら、これはスローなバラードの名曲であり、ひばりの上手さに全員が感動する。
  このとき、ひばりは16歳で、AKB48より遥かに若かった。

 大好評の内に終わり、岡田先生への質問も出た。
 
 その後、家に戻ると、大阪市長選挙で、橋下徹が当選確実の報。
 「大阪はそれで良いの?」と思う。
 紳士の平松氏よりも、アンチャンの橋下徹を選択したわけだが、いずれ歴史が結論を出すだろう。
 「一周遅れのトップ・ランナー」という言葉を思い出す。 

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