『生きていてよかった』です

山田五十鈴が、本名の山田美津(タイトルは山田美津子になっているが)の名でナレーションをしたのは、1956年のドキュメンタリー映画『生きていてよかった』です。
これは、亀井文夫の日本ドキュメント・フィルム社が作った作品なので、『母なれば女なれば』で、亀井文夫監督作品に出ていた関係で、山田五十鈴が引き受けたのだろうと思う。
やはり、昔の女優は偉いね。

山田五十鈴の作品はいくらでもあるが、溝口健二の『浪速悲歌』に止めを刺すのではないか、このとき19歳だったというのだからすごい。
後に、団玲子主演で、須川栄三が『ある大阪の女』としてリメイクしていて、これも悪くないが、山田五十鈴は19歳でやったのだから、芸歴がそれまでに十分あったと言うが、さすがである。

彼女に匹敵するのは、長い日本の映画史の中でも、1976年に『大地の子守唄』と『青春の殺人者』に主演した原田美枝子くらいしかいないだろう。
この2本での原田美枝子は大変すごいが、まだ17歳の高校生だった。

少女や少年が、大人顔負けの大活躍をすることは意外にもあるもので、野球では、甲子園で大活躍し、「怪童」と呼ばれて、プロの東映でも剛速球でプロの大人の打者を驚かせた尾崎行雄という投手がいた。
ただし、彼は肩をこわしてしまい、ほんの数年で活躍は続かなかったが。
彼は、東京の下町で料理屋の娘さんと結婚し、幸福な生活を送っていて、一度居酒屋で会って少し話したことがある。
とても優しい人柄で、
「私は手が小さかったのでね」と照れながら、東映時代のことを話してくれた。

山田五十鈴は、言ってみれば、甲子園で大活躍したまま、プロ入りし、プロでも記録を塗り替え続けて来た投手のようなものだが、彼女の他に見当たらない。

晩年に榎本慈民の作・演出で行われた山田主演の『たぬき』、これで私も立花家橘之助を知り、カセット、CD等で聴くようになった。
いま聞いても、彼女の歌も三味線もジャズのようにスイングするもので、昨年『横浜で交差した音 日本編』でかけたが、皆驚いていた。
彼女のレコードは、かなりCD、カセットになっているが、岡田則夫さんは、全部のSPを持っているそうだ。
是非、この山田五十鈴のご逝去を記念し、全曲をCD化していただくことをお願いする次第です。

                                            

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コメント

  1. spiduction66 より:

    山田五十鈴さん
    山田五十鈴さんの死は、昭和戦前の映画史にピリオドを打たれた気持ちとなりました。

    去年99歳で亡くなった義理の祖母は、京都の鳴滝のお米屋さんの娘でした。

    昭和初期の鳴滝というところは「鳴滝組」という言葉が残っているぐらいで映画人の家(下宿)が多かったそうですね。生前の祖母は山田五十鈴を何度か見かけた、という話をしてくれたことがありました。
    「そりゃあもう周囲が明るくなるような華やかな人で...」。

    もう伝説みたいな話です。
    祖母はもしかして、山中貞雄ともすれ違っていたのかもしれませんね。