先日、拙書『黒澤明の十字架 戦争と円谷特撮と徴兵忌避』を林穎四郎さんに送ったところ、早速お礼のお電話をいただいた。
林さんは、戦後東宝の砧撮影所に入り、長く録音技師として活躍された方だった。
作品としては、1971年の『だまされて貰います』が、録音技師としての最初で、今井正の『海軍特別年少兵』、『ゴジラ対メガロ』、須川栄三の『野獣狩り』
『グアム島珍道中』、『しあわせ』、『妻と女の間』、『白熱』、『乱れからくり』、『地震列島』などの多彩な作品を担当されている。
一見すると喜劇、特撮、文芸作品、ミステリーと脈絡がないが、その辺が全盛時の映画界の技術者のすごいところで、どんな映画でもできたのである。
日活で言えば、舛田利雄や鈴木清順、あるいは西河克己らが、どのようなジャンルの映画でも監督できたのと同じである。
因みに林さんが、昭和27年に東宝に入社して最初についた作品は、黒澤明の『生きる』だったそうだが、その後黒澤作品につくことはなかったとのこと。
林さんは、2006年雑誌『映画テレビ技術』に『日本映画史のミッシング・リンク』を連載されており、戦時中の航空教育資料製作所について書かれた。
東宝の先輩の録音や撮影の技術者、藤好昌生、うしおそうじ、玉井正夫らからの聞き書きで、航空教育資料製作所の全貌を初めて明らかにした。
詳しくは、林さんの論文、あるいは拙書を読むしかないが、1939年に東宝は海軍から砧の土地を譲渡され、そこに秘密のスタジオを建てた。
そこでは、雷撃機での魚雷の投下方法、航空母艦との戦闘方法等の軍事マニュアル映画が、陸海軍からの委託で作られた。
言うまでもなく、円谷英二の特撮を駆使してである。
具体的には、真珠湾攻撃の際の魚雷攻撃のための映画もあり、うしおそうじが、その中の線画、つまりアニメーションを担当した。
さらに航空戦果シリーズとして、三菱、中島、川崎の航空機会社に予算を出させて、南方等での実戦の活躍を記録した映画も作った。
それは、工場の労働者の士気向上のために軍需工場で上映されたのである。
それは極秘だったので、東宝の社員でもほとんど知らないとことだったと佐藤忠男さんの『日本映画史・増補版』にも書かれている。
敗戦までの50本以上の中・短編映画が作られたが、その殆どは終戦時に焼却されて残っていないそうである。
こうしたことは、戦後は言って見れば秘匿したいマイナスの歴史であり、それを関係者にお聞きして記録し、発表することはかなり大変だったと思う。
事実、当初の原稿からはかなり削除した部分もあったそうだ。
だが、私は戦争中の歴史は、歴史として事実を明らかにすべきだと思っている。
その上で、責任が問題になるが、単純に言ってそれは仕方なかったことだろうと思う。
現在と全く異なり、戦争体制は絶対であり、もし反対すれば、逮捕、投獄、処罰が当然のことだった。
2年前の「3・11」直後のテレビ等のマスコミは、一斉に自粛ムードになった。
あの凄まじさを思えば、戦時中に永井荷風が、周囲に同調せず、自説と自分姿勢を一貫して貫いたことは、いかに凄いことだったかが、よくわかった。
林さんからは、「よくきちんと調べたことと」をお褒めいただいた。
ただ、「松竹で黒澤が監督した『白痴』については記述がありませんでしたね」とのご注意もいただいた。
確かにその通りで、映画『白痴』については、一切触れていない。
理由は、映画『白痴』は、正当に評価に値する作品として残っているのか、ということである。
知られているように、黒澤明が当初作った『白痴』は、4時間くらいの映画だった。
それをチーフ助監督の野村芳太郎が松竹からの命令で、2時間半に再編集し短縮したものしかない。
それをどう評価すれば良いのだろうか。
林さんの論文には私は大変助けられたので、すぐに送ったのだが、読んでいただきお礼を言われたので大変嬉しかった。