『火のように淋しい姉がいて』 

清水邦夫作のこの劇の初演は、1978年で山崎務、岸田今日子、松本典子らの木冬社の公演、演出は秋浜悟史だったが、この時は私は見ていない。
意外にも古い戯曲で、『朝に死す』や『タンゴ、冬の終わりに』などよりも前の作品なのには驚いた。

私が見たのは、1996年の再演の時で、今年死んだ蟹江敬三の主演で、妻は樫山文枝、姉はこれも今年亡くなった松本典子で、清水邦夫自身の演出だった。
もう30年近く前なのでよく憶えていないが、静かな狂気の芝居だったと思う。


今回は、主人公の男の役者は段田安則、妻は宮沢りえで、姉は大竹しのぶである。
段田の弟役が、平岳大の他、山崎一、満島慎之介、西尾まり、市川夏江、立石涼子、新橋耐子など豪華な俳優である。

冒頭、楽屋でオセローの台詞を言いつつ、自分の狂気の世界に入ってゆく段田がいて、妻と一緒に転地療養で、故郷の新潟に来て、ある理容院に入る。
誰もいず、段田は石鹸を溶く琺瑯の入物を誤って落として割ってしまい、妻は無断でトイレに入るはめになる。
そこに村人が現れてきて、二人に絡み、次第に険悪な雰囲気になり、男はすべては彼らの罠だと言うようになる。
この辺のやり取りは、例えてみれば別役実の戯曲のようにかなり執拗で、しかも台詞は相当に早いので、私も「前回もこうだったのかな」と思いつつ、つい少し眠ってしまう。
だが、休憩に入ると周囲の人が皆「寝てしまった」と言い合っている。
ああそうなのだ、蜷川幸雄の演出は、台詞のやり取りが早いのが特徴で、それは彼が『ロメオとジュリエット』などで商業演劇にデビューした時、
「台詞が早すぎて分からない」とよく言われた。
一般に劇の台詞は、役者が的確に把握し、言えればいくらでも台詞の間を詰められるもので、それが劇的緊張を高めるのである。
だが、時々観客の理解を越えて走ってしまう時があり、この日の1幕目がそうだった。
休憩後、床屋の女主人が実は姉であることがわかり、狂気とお芝居の仕組みがわかるあたりから、劇は非常に感動的に高揚し、最後妻を絞殺してしまった男に背後に流れるデモと機動隊との激突、催涙弾の発射音に至っては、涙が自然と出た。
これも1960年代末という時代をひきずっている劇だったのだ。

また、これは大竹しのぶと宮沢りえの女優対決劇だったが、やはり大竹の貫録勝ちだろう。
シアターコクーン

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