伊地知啓は、日活がロマンポルノになって多くの名作をプロデュースし、1977年に退社してキティで、これまた話題作を作って来た。
特に相米慎二の作品は、ほとんどが彼のプロデュースであり、相米を育てたプロデューサーと言って良いだろう。
まず、石原裕次郎全盛時代の製作方法が面白い。作品の製作が本社で決まると、後は撮影所のもので、すべては監督とチーフ助監督以下で進行し、チーフ助監督が実質的にプロデューサー的役割を果たし、外部との交渉もチーフがやっていたと言うのが興味深い。
これは、実質的に松竹のディレクター・システムであり、製作再開後の日活の助監督の多数が西河克己、中平康、今村昌平、鈴木清順など松竹大船から来たことによるものだと思う。
さらに社長の堀久作が映画製作に口を出さなかったことが、撮影所の自由さを保証したのである。
伊地知は、主に蔵原惟義作品の助監督をやっていたが、ある時今村昌平から、彼の『神々の深き欲望』との抱き合わせ企画だった『東シナ海』の監督の話が来たが駄目になる。
澤田幸弘の下で、後に深作欣二の『仁義の墓場』の主人公石川力男の話を企画化し、箱書きまで書いたそうだ。
だが、そこに藤田敏八が現れて「そんなことをしても無駄だよ、俺のをやれ」と言われ、最後の作品『八月の濡れた砂』をすることになる。
そしてロマンポルノで本格的にプロデューサーになる。
彼の特徴としては、演劇的なところがあると思う。伊地知啓は、学生時代は演劇をやっていたそうで、相米や藤田敏八を好むのは、彼らの演出の演劇性があると思う。
ただ、相米については、少々評価が高すぎる気もするので、今度渋谷のシネマヴェーラで、回顧上映があるので、また良く見ることにする。