「大阪都市構想」なるかなり無意味な大騒ぎも終了したが、そもそも大阪が、東京を凌駕していたのは、少なくとも近代では昭和初期だけではないかと思う。
所謂関西モダニズムの時代であり、その象徴的な人物は、阪急グループの小林一三である。
近代の歴史で、大阪、神戸等が東京圏を凌駕したのは、昭和初期のみで、その理由の第一は言うまでもなく関東大震災である。
されに、地理的条件から、朝鮮、中国、台湾等との交易も増加して関西は、経済的、文化的にも東京をリードした。
谷崎潤一郎は、東京から関西に転居して、関西文化の奥深さを知り、それは『細雪』に結実することになる。
また、音楽的にも服部良一に代表されるように、ジャズに於いても、関西のジャズ、ダンスバンドは東京より進んでいたのである。
また、映画界も日活、松竹の撮影所が壊れたので、関西に移り、トーキーになると、溝口健二の名作『浪華悲歌』を作りだすことになる。
この名作は、別の見方をすれば、当時の関西の好景気を背景とした享楽的な若者像を描いたリアリズム作品だとも言える。
だが、こうした関西の優位性は、東京の帝都復興で追いつかれ、1932年の満州国建国から太平洋戦争に至る「軍需景気」の中で、完全に逆転されることになる。大阪には、東洋一と言われた陸軍の造兵廠はあったが、山口瞳の父親が発明で軍需成金になったような官民挙げての軍需景気は、関東の方が強かったようだ。
そして、太平洋戦争末期の大都市空襲では、戦後の利用のため、東京の丸の内や横浜の港湾施設を爆撃目標から外したのと反対に、大阪、神戸には占領以後に使用すべきものが大してないと判断されたため、徹底的に空襲爆破された。
大阪の空襲が以下に凄かったかは、やはり溝口健二の映画『夜の女たち』に見ることができる。大阪は本当に徹底的に空襲されていて、建物がほとんど見えない。
戦後については、特に私が言うまでもないだろう。
今後、大阪などの関西圏がどのようにしていくべきかは、やはり独自の文化、伝統を生かしていくしかないのだと私は思う。
歌舞伎・文楽から、カラオケ、ビニ本、ノーパン喫茶に至るまで、すべての新規事業は関西から生まれているのだから。
コメント
その昔
私の出身地、北信越の大富豪(北前船船主や繊維産業や伝統工芸以外の会社の創業者)は大抵、本宅を大阪に移して、故郷には子供の夏休み時期のみ帰ってくるというスタイルで、代を重ねるごとに先祖の土地を売却し、殆どかつての栄華の痕跡が残っていない場合が多いです。
今だったら、移住先は大阪ではなく、首都圏か海外でしょうかね。
(北前船船主の場合、大阪に行かない場合は北海道に移住した例も多く、あるいは海沿いの村から県庁所在地に移って銀行を創業した例もあります。現在の富山県の北陸銀行と石川県の北國銀行がそうですね。北陸銀行の場合は北海道移住組とも関連が深いようです)
>独自の文化、伝統を生かしていくしかないのだと
維新はその点ではあまり良くなかったですね。私の知り合いで、阿倍野区の小学校の卒業式に呼ばれるような「地元の名士」かつ、大阪の伝統芸能や産物の保存会の会員の人がいるのですが、維新の跋扈の後は補助金が相当切られたり、活動をやめねばならない部会もあったり、と散々だったようです。なんとなく、話を聞いて感じたのは、維新関係者・支持者は知人のような大阪弁でいう「ええし」やその文化を嫌っているのだろうな、という感じ、でした。