『光る女』

日本映画史に残る滅茶苦茶映画だと思う。結構面白そうなアイディアはあるが、すべてが失敗している。

途中から製作に参加した伊地知啓によれば、主人公2人の選びが非常に大変で、男は強いからと若手プロレスラーの武藤啓司にし、女は音大生等を探したがいなくて、「ピアニストの娘でいい子がいるから」と騙されて秋吉満ちるになったとのこと。

                 

主人公2人がひどくて良い作品になることはありえない。

冒頭、ゴミ捨て場を野性の男武藤が裸足で歩いて来て、ゴミの山の上でアリアを歌う秋吉に会う。

これや、ジョコンダという、高級な大レストランンで、オペラ・アリアを背景にプロレスラーが戦う、反俗主義的映像は面白い。さらに女形姿の出門英が、演歌をオーバー・アクションで歌うのも、悪くない。

タモリがまだ無名の頃、東京12チャンネルで土曜日の昼に『断トツ・タモリの大放送』があり、そこでは気象予報のバックに、プロレスの流血のシーンを流していたが、そのような意図である。

今見れば、1987年というバブル全盛期のファッション、なんでもいいから金を使えという雰囲気が分かって非常に興味深いとは言えるが。

だが、伊地知啓が本で言っているように、このインチキ・レストランのシーンは、本来アクション場面であり、例によって相米慎二はだらだらと撮るので、一向に盛り上がらない。

武藤は、故郷から東京に出た許嫁の安田成美を探しに来たのだが、彼女は、レストランのオーナーのすまけいの女になっている。

クビになった出門英と武藤が、新宿で浮浪者のように互いに慰め合うのは、『真夜中のカーボーイ』みたいで、相米は、この二人の関係を描きたかったのではと思えてくる。

最後、安田は気が変になり、北海道の故郷に武藤と秋吉が戻り、民謡のような変な歌を秋吉が歌い、その下の畑で農民が働いている、というのはかつての日活の民青的歌声映画への批判なのだろうか。

ともかく、日本映画史上に残る珍作であることは間違いない。

フィルムセンター

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