亀井文夫監督の映画『戦ふ兵隊』は、1939年に完成したが、陸軍の意向で公開できなかった。その理由は、巷間言われているような、作品が「戦う兵隊ではなく、疲れた兵隊に見える」と言われたからではない。
本当の理由は、当時東宝は、砧に秘密スタジオの航空教育資料製作所を作る計画が進んでいて、それに協力してもらうための交換条件だったと亀井自身が、自伝の『戦う映画』P54に書かれていることである。
だが、この事実に誰も注目していないのは、どうしてだろうか。
理由は簡単である。この航空教育資料製作所というものをほとんどの人が良く理解していないからであると思う。
それは、東宝の文化映画部長松崎啓次氏のアイディアだと思うが、砧撮影所に特別なスタジオを作り、特撮やアニメーションを駆使して、軍や軍需企業用のマニュアル映画を作り、そうした軍や企業からの資金提供で安定的な企業経営をしようとしたものだった。
そこでは、1939年ごろから、軍委託の様々な軍事マニュアル映画が製作された。もちろん、その特撮技術の中心は円谷英二である。
だから、太平洋戦争開戦1周年を記念して映画『ハワイマレー沖海戦』が作られて、円谷特撮に全国民が驚嘆したが、それはすでに1940年頃には、軍委託作品の製作で十分に試験済みの技術だったのである。
こうした東宝の航空教育資料製作所の存在は関係者以外ほとんど知られておらず、戦後はこの東宝第二スタジオは、ストライキでできた新東宝撮影所になるのだ。
また、元東京発声映画スタジオだった東宝の第三スタジオも、新東宝の第二スタジオとなるが、ここも実は特撮専用スタジオとして戦時中は使用されていたものだった。
ここは、後に新東宝から富士映画になり、さらに大蔵映画となり、一時はピンク映画のメッカとなった。
だが、現在ではスタジオはなく、世田谷区桜のオークラランドの建物の一部として使用されている。
亀井文夫自身が書いていることなのに、この航空教育資料製作所を知らないと簡単に読み過ごしてしまう箇所である。
詳しくは、拙書『黒澤明の十字架』をお読みいただきたい。