維新派を主宰し、作・演出を手掛ける松本雄吉の作品を見るのは、3回目である。
大阪を中心に活動し、関東ではあまり活動していないのだから、仕方がない。もう1回、1970年代の公演の映像をつい最近に、フィルムセンターで見た。
それは、かなりアングラ的で性的な表現の強いもので、彼らはその時々の時代の流れに相当に寄り添いながら公演をしてきたことがよくわかる。
最初に見たのは、汐留開発の際の東京パーンというイベントでの『少年街』だったが、舞踏をヒップポップでやったもので、肉体の分解、分節化には大きな疑問を持った。
次は、1991年の新国立劇場での『水街』で、戦前の大阪やアジアの都市を舞台としたもので、これにはかなり感動したことを憶えている。
今回は、寺山修司生誕80年祭で、寺山の原作を天野天街と松本雄吉が共作した台本を松本が演出している。
寺山と松本は、寺山の存命中はほとんど接点がなかったようだが、二人はよく似ているところがある。
どちらも絵画的なところで、実際に松本は美術教師であった。寺山は、絵画的というよりは、映画的というべきだが、どちらも虚構の世界と現実の交錯を主題にしているところも、同じである。
筋は、一言では言えないが、都市に住む様々な人間の紡ぎだす、あるいは見られた夢である。
それは、女性主人公で、李香蘭を思わせる女優霧矢大夢が見た、満州国の夢でもあり、都会の少年たち・溝端淳平と柄本時生が抱いた夢でもある。
もし、夢が覚めて、裏切られるためにあるとすれば、すべての人類の夢は、ついえて消え、再び夢見られるために人間に遣わされた能力ということになるだろう。
なぜ、神は人間に夢見る能力を与えたかと言えば、いうまでもなく人間が成長し、進歩するためにちがいない。
だが、それは時として悪夢や狂気の、戦争や虐殺の現実になることもある。
人間に訪れる夢と現実、そして音楽の内橋和久の「ジャンジャン・オペラ」という人間の肉声と動作の分節化された動きの繰り返し。
役者では、母を演じた麿赤児が圧倒的だった。あえて存在感などというバカな常套句は使わないが、それはやはり年の功というべきものだろうか。
東京芸術劇場プレイハウス