『幻燈辻馬車』

池袋のシアター・グリーンに劇団俳小の『幻燈辻馬車』を見にいく。

劇団俳小は、かつての劇団俳優小劇場の後身で、劇団俳小に改称後の現在は、大学の劇団の先輩斉藤真さんが代表をつとめられている。

俳優小劇場は、演出家早野寿郎を代表に、小沢昭一、山口崇、露口茂らを擁する有名な人気劇団だった。

今村昌平の映画『神々の深き欲望』の原作となる『パラジ』、小沢昭一による『新劇寄席』など斬新な企画も上演している、現在の小劇場運動のはしりの集団だった。風間杜夫が、その付属演劇研究所の出身であることからも、その人気の高さがわかるにちがいない。

現在では、斉藤さんと勝山了介を中心に若手から成る集団だが、リアリズム劇を上演しているのは非常に高く評価できると思う。

               

さて、今回は山田風太郎の明治ものの『幻燈辻馬車』で、原作は三遊亭円朝から嘉納治五郎まで出てくる大伝奇ロマンなので、さぞ脚色は大変だったと思う。

また、明治維新から自由民権運動に至る歴史的事件が繰りこまれているは、若手出演者によるコーラス、スライドによって手際良く処理されていたのは、演出の志村智雄の手腕である。

山田風太郎、そして今回の作者金子義広、演出で漢学者錦織晩香の志村智雄、主人公干潟干兵衛の斉藤真の立場は、藩閥政府の悪を暴くだけではなく、自由民権運動側の問題もついていたのは、さすがだった。

最後、加波山事件の前に、農民を壮士が切り捨てたとき、「無辜の民を殺害して何が自由民権運動か」と干潟干兵衛と錦織晩香が言う時、

私は、三好十郎の名作『斬られの仙太』のラストの場面を思い出した。

天狗党に参加するが、その内実に絶望し、故郷の村に残った仙太は、自由民権運動の活動家を冷ややかに見送るのである。

こういう芝居は、先日のデビット・ルヴォ―に言わせれば、多分ナチュリズムの悪弊の例であるかもしれない。

また、SCOTの鈴木忠志に言わせれば、こうした劇での感動というものは、演劇的感動ではなく、筋書きやテーマに感動しているので、邪道だということになる。

だが、本当の意味での演劇に感動しろと言っても、それに感動している観客はどれだけいるものだろうか。

主人公の斉藤真、志村智雄、さらに三島通庸と染谷銅助の勝山了介の演技の確かさをみるとき、「ローマは一日にしてならず」という言葉を思い出すのだった。

グリーン・シアターの椅子は小さくて狭いので、高齢の身には少々つらい二時間だった。

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