『母と暮らせば』

山田洋次の新作は、小津安二郎と黒澤明への賛辞と回答だと私には思えた。

原作は言うまでもなく、井上ひさしで、黒木和雄が監督した『父と暮らせば』が広島で原爆で死んだ父の霊が娘のところに現れる話だが、これは、長崎で死んだ息子の二宮和也が、母親の吉永小百合に来る劇である。

だが、この映画の主人公は、吉永でも二宮でもなく、二宮の恋人だった黒木華である。

ここには、明らかに小津安二郎の『東京物語』の原節子のイメージが重ねられていると思う。

                                      

この映画の筋は、「如何して黒木が、二宮の記憶からはなれて、同じ小学校に勤務する復員者の浅野忠信との結婚に踏み切れるか」である。

二宮への罪悪感から、黒木は、「自分だけが幸福にはなれない」と結婚に踏み切れない。

二宮も最初は、その話を聞いて激怒する。だが、生きている者にとっては、現在が第一で、最後に黒木は浅野と婚約する。

二人は、昭和23年の年末、吉永の家に報告に来る。その時、初めて浅野は片足を戦争で失っていることを観客は知る。

吉永の許しを得て、玄関に向かった黒木が戻って来て、吉永と抱き合い「こうちゃんに申し訳ない」と言う。

少しも申し訳なくはない、本当に申し訳ないのは、戦争を始めた者たちである。

私は、『小津安二郎の悔恨』で、『東京物語』の原節子には、誰か付き合っている男がいるのではないか、と書いた。

こ『母と暮らせば』での山田洋次も、黒木に原節子のイメージを重ねていると私は思う。

小津安二郎の映画『早春』での、池部良の戦友会での臆病な兵隊の、上野の煮豆屋の男との再婚の話は、原節子には男がいることを示すものだと私は思う。

死んだ二宮が、現れるのは、演劇的で、最初は違和感があるが、次第になくなって来る。

その理由は、この映画が、多分「順撮り」したからだと思われる。

最初は役者が慣れなかったが、次第に慣れて来て、調子が出てきたからだと思う。

黒澤明からの引用は、冒頭で下駄の鼻緒が切れた吉永に対し、黒木が鼻緒をすげてやることで、これは『姿三四郎』での、三四郎が神社の階段で乙美の下駄をすげて上げるシーンである。

また、二宮の兄がビルマ戦線で死ぬとき、その顔が吉永の夢に現れるが、これも黒澤明の『夢』の4話目の「トンネル」の兵士たちの亡霊の顔を思い出させた。

最近の山田洋次作品では、一番良いと思う。

上大岡東宝シネマズ

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