『ジャズ娘乾杯』

1955年、井上梅次が宝塚で作った音楽映画。
落ち目の曲芸師の伴淳三郎と、その娘で、ミュージカル好きの雪村いずみ、朝丘雪路、寿美花代の三姉妹が、父と葛藤しながら、ミュージカルスターになって行く話。

井上は、この後、1963年には松竹で、有島一郎の父親に水谷重恵、倍賞千恵子、鰐淵晴子で、さらに1967年には、香港のショー・ブラザースで『香港ノクターン』としてリメイクしている。
また、この映画の後半の三姉妹の若い友人の江利チエミやペギー・葉山、高英男、柳沢真一らが、ミュージカル映画を作る件は、日活の石原裕次郎、北原三枝、月丘夢路らの『素晴らしき男性』になっている。
言わば井上梅次は、マキノ雅弘のようなタイプの監督で、同じ話をそのときの役者に合わせて脚色し、上手く作品化できる監督なのだ。
これは、歌舞伎など、日本の伝統芸能の世界では、当然のことで、役者に合わせて台本を変えて、作品にする。
それが座付き作者なのである。

ジャズ娘と言っているが、ショーの場面で彼らが歌うのは、ほとんどジャズではない。
江利チエミが歌うのは、ブラジルのアコーデオン奏者ルイス・ゴンガーザが世界中で大ヒットさせた『陽気なバイヨン』で、ぺギー・葉山は、『ババ・ルー』、雪村いずみは『ブルー・カナリー』で一応ジャズだが、高英男はシャンソンを歌う。
寿美花代と踊るのが中山昭二で意外に思うだろうが、中山は元はバレー・ダンサーで、きちんと重量級の寿美花代をリフトするのは、さすが。

この時代、クラシック以外の西洋音楽は、すべてジャズと呼ばれた。
ジャズは、言うまでもなく、性行為を表す黒人の隠語で、そこからカッコいい表現を「ジャズ」と言うようになったのである。
だから、ジャズに形式や様式はなく、上昇しようとする表現の志向性を持つものをジャズと言ったのである。
言わば、背伸びする表現がジャズなのだ。
その意味で、西欧の音楽への憧れで満たされている、この時代の音楽は、ジャズ的と言ってよい。
その意味では、『踊りたい夜』には、そうした憧れがなく、この『ジャズ娘乾杯』の方が、原初的な憧憬を持っていて、作品に迫力がある。

父の伴淳三郎が上手い、最後白内障で目が見えなくなったとき、手術する目医者の藤原釜足とのやり取りが最高である。
ラピュタ

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コメント

  1. 村石太レディ&エリー より:

    映画同好会(名前検討中
    終戦後 ジャズは 民間にどう 受け取られたのだろうか?

  2. さすらい日乗 より:

    人によって全く違うと思います
    瀬川昌久先生のように戦前からジャズを聞き、レコードも集めていた人はごく少数でした。
    岡田則夫さんの話でも、戦前、戦中にジャズやポピュラー、クラシック音楽等を聞いていたのは、東京など都市のほんの一部の人で、日本人の大多数は、浪花節や邦楽を聞いていたのではないかとのことです。
    ですから、戦後の受け貯められ方を一様に言うことはできないと思います。