『無声期の映画館と音楽』

早稲田の小野講堂で『無声期の映画館と音楽』というイベントが行われた。これは、日本音楽学会の若手研究者を中心に、サイレント期の映画研究者などが横断的に研究してきたことの成果の発表だった。

                                  

研究の基は、早稲田の演劇博物館に6箱の段ボールがあり、楽譜の譜面で、HIRANOという印が押されたものだった。

当初はなんであるかが分からなかったが、結局日活の無声映画期に、劇場で伴奏や休憩時の演奏(奏楽という)の楽譜(ヒラノ・コレクション)であることが分かった。

平野行一という人で、日活の映画館だった神奈川演芸館や品川娯楽館で楽師として活躍された人らしい。

当時のサイレント映画の伴奏は、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、フルート、三味線などによるもので、映画館によってその規模は異なり、一流館では管弦楽団に近いものまであった。

様々な角度からのサイレント期の音楽についての研究が報告され、実際に2部では、柳下美恵さんの演奏、さらに3部では、池田富保監督の名作『忠臣蔵』の上映と、片岡一郎さんによる口演、楽団カラード・モノトーンによる再現も行われた。

 その結果は、初期なほど西欧的な音楽が多く、次第に日本映画にあった和洋折衷的なものになっていったようだ。

これは、中村とうようさんが言っていた、「多くのポピュラー音楽で、その初期ほど西欧的で、時代が進むほど民族固有の音楽になる」というテーゼに似ていると思った。

質疑応答の中で、平野行一氏の、映画館の楽師をやめた1930年代中頃以降の経歴が不明とのことだったので、彼の学歴から考えれば、v軍関係に行ったのではないか、と言っておいた。

というのも平野氏は、日本体育学校(現在の日体荏原高校)を卒業していることで、ここは日本体育会の下に作られた専門学校である。

日本体育会の幹部が黒澤明の父の黒澤勇で、この組織は、強壮な肉体の兵隊を作ることを目的に設立されたものなのである。

だから、黒澤明の兄の黒澤丙午は、府立1中(日比谷高校)を落ちた後、成城中に入ったが、ここは陸軍士官学校の予備校だったのである。

因みに海軍士官学校の予備校が、海城中学だった。

だが、丙午は中学の頃から、文学と映画が好きになり、陸軍ではなく映画に行こうとして、父親と非常に対立したそうで、黒澤明の本に書かれている。

当時住んでいた恵比寿の近所に山野一郎がいたので、彼の紹介で弁士になり、洋画の若手弁士として忽ちに頭角を現すが、トーキーへの移行の弁士ストの後、27歳の時、愛人と心中してしまう。

いずれにしても、平野行一氏が出た日本体育学校と日本体育会は、軍隊と関係の深い組織で、体育会の理事長は退任した陸海軍の将軍だった。

平野氏が、映画のトーキー移行で失業したとき、他の連中は、ハタノ兄弟のようにクラシック、仁木多喜男のようにジャズに行ったが、平野氏は、卒業校のコネクションで軍楽隊等に行ったのではないかと思う。

陸海軍の軍楽隊から、映画会社の音楽監督になった方は多かったようだが、逆もあり得たのだと思う。

映画や音楽関係の資料に、平野氏のその後の存在が出てこないのは、軍隊というほとんど関係の薄い世界に行ったからではないかと思う。

最後に上演された『実録・忠臣蔵』は、数少ない現存する目玉の松ちゃんこと尾上松之助主演で、池田監督が実録とタイトルしたようにきわめて淡々としたもので、目玉をむく演技はなかった。

ただ、このベビー・パテフィルムによる『忠臣蔵』は、1926年の物に2本の他の作品が挿入されていると、大阪芸術大学の太田米男先生からの説明があった。

片岡一郎さんの活弁は非常に力の入ったもので、カラード・モノトーンの演奏と合わせて非常にサイレント映画は、こういう感動的なものだったのかと思った。

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