連日の放送で少々飽きが来たピヨンチャン・オリンピックのテレビ放送だが、日本での放送の歴史を考えてみたい。
ラジオ放送がいつから日本で行われたかは知らないが、1936年のベルリン・オリンピックの放送は行われていた。永井荷風の『断腸亭日乗』には、銀座の街頭で夜中までラジオが放送されていることが記述されていて、荷風は少々迷惑気味にみえる。
この昭和11年ごろは、戦前日本が最もモダンな時代で、教科書では戦争に向かう「暗い時代」とされるが、実態はかなり享楽的な時代だった。トーキー映画、レビュー、ダンスホール、大衆雑誌等が盛んで、4年後の1940年には東京でのオリンピック開催が決定された。晴海が会場で、勝鬨橋もこの時に建設された。だが、日中戦争の深刻化から開催は延期され、代わりに皇紀2600年祭が昭和15年に行われた。
戦後、参加したヘルシンキ大会で日本で放送が行われたかは知らないが、1956年のメルボルン大会ではラジオの中継が行われていて、時差の関係からか朝早く起きてラジオを聞いた記憶がある。
1960年のローマ大会では、テレビ中継が行われたが、実験放送で、短波を使っての中継だったので、情報が少ないせいか、「分解写真」のようなぎこちない動きの映像だった。実は、テレビ放送は1936年のベルリンオリンピックでは行われていて、多分ドイツ国内では放送されたのだと思う。ドイツの技術力はやはりすごい。
1964年の東京大会ではテレビ中継で世界に送られたが、この時に記録映画を作るために、日本中の文化映画等のスタッフが総動員された。映画監督の山本晋也も、当時は岩波映画にいて、オリンピックでは陸上競技の撮影に動員されたそうだ。
この時が、今考えると日本の記録映画、文化映画、ニュース映画のピークで、以後はテレビに移行してしまう。また、1963、1964年は日本の劇映画もピークだったと言える。
理由は明白で、伊藤大輔、内田吐夢らの戦前派のほか、黒澤明、木下恵介の戦中にデビューした者、さらに戦後の増村保造、今村昌平、岡本喜八らもいて、そして大島渚、篠田昌浩、吉田喜重、日活の蔵原惟繕、舛田俊雄らも出ていたからだ。
また、この1964年以降の文化映画、ニュース映画の衰退の中で、失職したスタッフたちによってピンク映画が作られるようになる。