ニュー・ミュージックが生まれたころ

月曜日は、六本木のビリオンの3階のスペースで行われた「ダイヤログ@ビリオン」に行く。対談されたのは北中正和さんと牧村憲一さん。

1974年から1976年の予定だったが、1975年の途中までこの日は終了。次は6月11日。

1974年は、石油ショックによるインフレ、もの不足社会になったことがニュース・フィルムで紹介された。紙不足でトイレットペーパー買占め騒動が起き、北中さんによれば、雑誌の紙代が値上がりし、『ニュー・ミュージック・マガジン』でも対策にページ数を減らし、薄くしたとのこと。だが、牧村さんによれば音楽業界は、むしろ明るく、この頃からニュー・ミュージックという言葉が使われだし、様々なアーチストが出てくる。

「ニュー・ミュージック」が、いつ使われたかだが、北中さんの資料では、あがた森魚のLP『噫無情』に新歌謡曲(ニュー・ミュージック)とあったことが紹介された。牧村さんからは、キングレコードの三浦光紀プロデューさんが傘下の若いミュージシャンを総称して売り出したとの挿話が披露された。

また、北中さんからは、大阪で出されていたミニ・コミ誌なども紹介されたが、当時多くのミニコミ誌やファン雑誌などが出されていた。後に『ニュー・ミュージック・マガジン』の編集者となる藤田正さんも、学生時代に『オールド・ミュージック・マガジン』というブルースについての雑誌を出していたそうだ。

さらに、玉石混交だが全国各地でコンサートやフェスティバルが行われ、その一つが中津川フォークジャンボリーで、その映像も上映された。

この時期の最も大きな音楽イベントは、郡山市での「ワン・ステップ・フェステイバル」で、沢田研二や内田裕也も出た大イベントだった。だが、牧村さんによれば、彼も北中さんも実際には行けなかったそうだが、行った人は「結構つらかった・・・」との感想だったそうだ。

理由は、PAの不備が最大の問題で、数万人の観客にきちんと届く音を出せるPAがなかったのだそうだ。後に、これに出た加藤和彦は、自費80万円のPAを購入し、日比谷野音で使ったところ迫力が格段に違い、他の出演者からは「ずるい」と非難されたそうだ。

1974年に創刊された雑誌『GORO』は、「ワン・ステップ・フェステイバル」の特集をたそうだが、当時はみなが、映画『ウッドストック』を見てその感動を日本でも実現しようとしたものだった。ワンステップのスタッフは、全員がボランテイアで、何人かは早稲田の牧村さんの家に泊まったが、中には「ヒッチで来ました・・・」というのがいたとの話には全員驚く。

1974年から75年には、曼荼羅、次郎吉、屋根裏、ロフトなどのライブハウスも開店する。

そして、荒井由実もデビューし、この時期に多くのアーチストがLPを出し、レコード各社は若いアーチストを探し、レコードデビューさせてゆく。

だが、実情は極めて厳しいもので、牧村さんによれば、現場の担当者は理解してくれたが、各社の上は、「それでいくら取ってこられるの?」と金がどこからか出るなら、原盤は作らせてやるよという感じだったとのこと。

理由は、普通の歌手なら1日で数曲録音できるが、若いアーチストたちは、数日で1曲と言った状況で、非効率的だったこともあり、これは、大滝詠一が自分でスタジオを持つことにもつながった。

さて、私自身の当時の感想を言えば、1975年に荒井由実が『あの日に帰りたい』で出てきた時、「嫌なものが出てきたな」と正直思った。

この後に、ニュー・ミュージックが日本の社会で受け入れられ、音楽界の主流になったのには、この頃から言われた出した「ニュー・ファミリー」の存在があったと思う。

私たち、団塊の世代は、お友達結婚の世代で、同世代で結婚するようになった。

その女性たちには、ピアノなどをやっていた者も多く、従来の歌謡曲とは別の傾向の音楽を望む地盤があり、それがニュー・ミュージックの普及になったのだなと思った。

今や、ニュー・ミュージックはダサいと言われているそうで、世の中は変化していくものだと思った。

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