今井正がコンテを書いていなかった理由は 

『村山新治、上野発5時35分』(新宿書房)は、非常に面白い本で、大泉映画ができたころの混迷状況も興味深いが、東映になった後、岡田茂の企画でヒットした『きけ、わだつみの声』に続き、今井正をよんできて来て作った大作『ひめゆりの塔』のエピソードが最高に面白い。

村山新治は、監督補佐だったが、当初3か月の予定は延びのびになり、結局は半年かかったが、ある日脚本の水木洋子が現場に見に来た。

そして彼女は言った、

「戦争映画で爆弾もあるのにコンテを作らずに撮っているなんて非常識、今井正ではなくて、今井悪しね」

だが、私はそうは思わない。今井正がいた東宝では、コンテを書かなかった監督の方が主流で、黒澤明も、山本薩夫もコンテを書くようになったのは、共に晩年であり、能率的に撮るためだった。

今井正が、コンテを書かなくてもきちんと撮影できたのは、カメラの中尾駿一郎の存在があったのだと思う。

「中尾はいいカメラマンではないか」と思ったのは、望月優子監督の『海を渡る友情』を見た時だった。これは、教育映画として作られた作品で、北朝鮮への帰還運動を題材としているが、朝鮮人と日本人の子供同士の交流の描き方などは非常に上手いなと感じたのである。

つまり、今井正は、撮影は中尾の任せていたので、コンテを書かなくてもリズムとテンポのある作品を作れたのだと私は思う。

事実、『海軍特別年少兵』で撮影を担当した岡崎宏三も、「今井さんはカメラマンに厳しい人で、『妖婆』の時の宮川一夫は、頑固な人でフィックス、長廻しに拘っていて参った、名カメラマンと言っても使いにくいことがある」と言っていたと書いてある。宮川は、やはり溝口健二作品にとらわれていたということだと思う。

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