1914年、大正3年、島村抱月が主催する芸術座の劇『復活』で、松井須磨子が『カチューシャの唄(『復活唱歌』)』を歌い、それは日本中で流行し、所謂流行歌を作ることになった。
この本は、この『カチューシャの唄』ができた経緯、全国への普及の過程、それが日本の社会に与えた影響について詳述してある名著だと言える。
この劇に歌を入れることを島村抱月が決め、作曲家として中山晋平を起用した時、中山は抱月の家の居候のような若者だった。
そして彼は、「この歌を日本の俗謡(つまり民謡等の邦楽曲)と西洋のリードとの中間として考えた」としている。
日本の文化の典型である、西欧的なものと日本的なものとの混合、その中間的なものとしての近代の日本文化がここでも見られるのだ。
そして、当初この歌に熱狂したのは、芸術座の観客だった、一高生らのインテリ層だったことが注目され、それは関西や全国の公演でも同様で、芸術座公演の前には、必ず島村抱月らの「文芸講演会」が開かれたという。
そして、この年4月に京都の東洋蓄音機で、彼女の唄と台詞入りのレコードが吹き込まれ、それが発売された。
このレコードは、大ヒットになったのはもちろんだが、こうした講演会の際にも再生されて聞かれたとのこと。
そして、全国で、路上でも歌われるようになる。当時の唄の流通過程は、街頭で演歌師が歌い、その際に歌本を売ると言うものだったが、このレコードのヒットを機会にレコードによる流通が主流となった行く。
その意味でも、この曲は大きな意味を持っていた。
都市では、御用聞きの少年が鼻歌として歌う、というものにまでなったそうだが、この「御用聞き少年が 」という表現は、1960年にジャズのアートブレーキーが大ヒットし、蕎麦屋の出前持ちも「モーニン」を鼻歌で歌うと言われたものと同じで、興味深い。
また、この曲がヒットするまで、日本全国で路上で、街頭で普通の人が、普通に様々な歌を唄っていたが、このヒットを一きっかけに、そうした風習は亡くなり、音楽はレコード等のメディアを通して聞くものになったとしている。
今、スマフォで音楽等を聞いているのはまさにその典型だろう。
さて、問題の松井須磨子の唄だが、今ではネットで聞けるが、異常なほどに下手な歌唱である。
だが、その素人くささが逆に新鮮で、それまで俗謡は芸者などの玄人の女性か、街頭演歌師のような蛮声しかなかったのに対して、今日のAKB48のような新しさがヒットにつながったのだろうと言うのが私の考えである。