姉妹はいつごろから、「しまい」と読まれるようになったのか

姉妹は、しまいだが、これが「しまい」と読まれるようになったのは、そう古いことではない。

溝口健二の『祇園の姉妹』は、「ぎおんのきょうだい」であり、しまいではない。

小津安二郎の『宗方姉妹』も、「むねかたきょうだい」である。

実際の映画の中の台詞として出てくるのもある。川島雄三監督の『夜の肌』では、チェーホフの『三人姉妹』が上演される場面があるが、「さんにんきょうだい」と題名が言われている。

いつ頃から、しまいと読まれるようになったのか。

私見では、1967年のNHKの大河ドラマ『三姉妹』が放映されたのが最初だと思う。岡田茉莉子、藤村志保、栗原小巻の三姉妹の物語だった。

このヒットの直後に俳優座が日生劇場で『三人姉妹』を上演したが、私は中学の同級生の女の子たちと見に行った。この時は、きちんと「さんにんしまい」と言われていたと思う。

さらに、1960年代中頃からの、ウーマンリブ、女性の解放運動の高まりの中で、姉妹もきちんと「しまい」と読まれるようになったのだと私は思う。

要は、女性への見方が変わったことの一つだと言えるだろう。

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コメント

  1. YROOM より:

    「しまい」という呼び方はもう少し古いのではないですか。こまどり姉妹が「浅草姉妹」でデビューしたのは1959年ということですから。オール・シネマでは1953年の岩間鶴男の「姉妹」は「きょうだい」とルビを振っていますが、1955年の家城巳代治の「姉妹」はそのままです。このあたりから変わってきたのではないですか。昔の日本映画を見るようになったころは普通に「祇園の姉妹」を「しまい」と言っていましたが、あとで「きょうだい」と読むのを知って少し驚きました。

  2. さすらい日乗 より:

    ご指摘ありがとうございます。こまどり姉妹は、確かに「しまい」でした。家城巳代治監督の『姉妹』は、野添ひとみ、中原ひとみのダブル・ひとみ映画で、メロドラマ的と言われましたが、家城は元は松竹大船なので、メロドラマ的なのですね。美空ひばりの『悲しき口笛』や、鶴田浩二の『雲流る果てに』が成功したのも、家城の持つメロドラマ的な資質から来ているのだと思います。

    全国的に、姉妹を「しまい」と言うようになったのは、ご指摘のとおりこまどり姉妹の登場は大きかったでしょうね。さらに、NHKの大河ドラマ『三姉妹』が決定打になったと言えるのかもしれませんね。