元号について思う

昨日は、テレビは元号だけなので不愉快になり、映画『赤線の灯は消えず』を見る。

さて、新元号は令和に決まったとのことだが、夕方に用があって電車に乗る。

と、仕事を終わった中年の女性2人が話していた。

「年号なんて必要なのかしらね・・・」がお二人の結論だった。

私は、日の丸・君が代とは違い、年号はあってもよいと思ってきた。

もちろん、年号は中国の皇帝が、領土という空間と共に、時間をも支配しよとする権力者の意思に他ならない。だが、明治、大正、昭和、平成と言えば、その時代のことが容易にイメージされるように、元号は、時代の「C・I」として意義があると思う。

だから、中国では皇帝が変わると元号も変えたもので、以前小泉文夫さんの本で読んだことがあるが、中国では皇帝が変わると音階も変えたのだそうだ。ここまでくると凄いというしかないが、音楽は公的儀式の付随品だったのだから当然だったのだろう。

さて、令和だが、令に巧言令色という言葉もあるが、「美しい」という意味があるのは初めて知った。

だが、普通に考えれば、令は、命令や辞令で、上から下に指図することである。国語辞典でも最初に出ているのは、命令の意である。

首相が言う、美しくには、かつての「美しい日本の私」を思い出し、不愉快になる。

要は、国の言うことに和せよ、従えという心なのだろうかと思ってしまう。

いずれにせよ、この変な元号によって、いよいよ西暦の使用が進むことになると思う。

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