松本清張を遅れてきた「プロレタリア文学だ」と言ったのは、関川夏央だが、確かに清張は、戦前の若いときは左翼系文学サークルにいたようだし、作品もプロレタリア文学的である。
ただ、松本清張が単純左翼ではないのは、彼の作品では、下層の者は必ずしも善玉ではなく、犯罪者の場合もあることだ。
そうした社会の下層にいる者、あるいは何らかの理由で被害者になったものは、その復讐を加害者(多くは上層の者)に対してやって良いのだ、と犯罪者を肯定しているところが、極めて戦後的である。
松本清張と似た立場にいたのが、『人間の条件』の原作者の五味川純平で、小林正樹監督の映画『人間の条件』も、今見ると大変驚くべき内容である。
そこでは、反戦平和や中国・朝鮮人が無条件で肯定され、軍隊や大企業が完璧に否定されている。
だが、こうした傾向は、実は昭和30年代の日本人全体の傾向であったことは忘れてはならない。
浦山桐郎の『キューポラのある町』の北朝鮮帰還運動の描き方が異常だ、とよく言われるが、当時は「国民的合意」、「つまり朝鮮には迷惑を掛けたのだから、彼らが母国に帰りたいと言うなら、それで良いじゃないか」と言う考えが全般的にあった。
そのときの情勢を無視して、現在から物事を判断してはいけない。
私自身は、松本清張も五味川純平も、好きではない。
なぜなら、共に文章がひどいからである。