母の墓参り

今日は、母の命日で池上の墓参りに行った。
本当は、明日7月15日なのだが、火曜日は兄が会社に行く日なので、月曜日にしたもの。
昼前に池上駅に兄弟5人(と言っても私は末っ子なので、長兄と3人の姉だが)が集まり、兄の車で本門寺に上る。
母の墓に線香を上げ合掌し、山を下りて実家で食事。

母は、14年前に85歳で胆のうガンで亡くなったのだが、私には一生を決めた人である。
私は、高校ではろくに勉強しなかったが、運良くストレートで大学に入学できた。だが、まず映画研究会、そして秋には学生劇団に入り、芝居作りの面白さから全く授業に出なくなった。
2年間で8単位、倫理学とフランス語しか取れなかった。
いずれ大学はやめ、演劇か映画の道に行こうと決めていた。

ところが、大学2年の秋、母が保健所の集団検診で胃がんが発見され、すぐに手術することになった。
大森の日赤での手術後、医者は言った
「あと半年は生かして見せるよ」
「半年で母は死ぬのか・・・」

1967年10月、羽田でのベトナム反戦デモで中核派の京都大学生が死んだ時である。
世の中は若者の反乱、アングラ文化の興隆で大変騒がしく、また非常に面白い時期だった。
そのまま、大学をやめるには極めてふさわしい時代だった。
だが、私は大学に戻った。
母が死んだら、私はどう生きて行くか、大いに不安だったからだ。

小学6年の時、大田区の小学校長だった父親は脳梗塞により57歳で死んた。
そのとき、長女はすでに結婚し子供もいて、次女は高校を卒業し銀行に就職していたが、兄は大学生、三女の姉もまだ高校生、私は小学6年だった。
母は、父が持っていた土地に退職金でアパートを建て、その収入で子どもたちを養ってくれた。私も母の力で大学まで行けた。
その母がいなくなったら、一体どうやって生きていくのか。
正直に言えば、「誰の脛をかじって生きていけば良いのか」と思った。
そこで、翌年の春から大学に戻り、3,4、5、6年と、人より2年遅れたが無事卒業し、そのまま就職も出来、今年定年退職できた。

だが、母は半年ではなく、なんとその後25年間生き85歳でなくなった。
私は、母にだまされたことになるが、一生を誤らなかったと言う点では、母に大いに感謝しなくてなならない。

母はかなり素朴な性格で、激情的な人だった。
その性格は子どもの誰も受け継いでいないようだ。
ただ、好奇心が強く飽きっぽいところは、私が継承したように思う。
姉たちの話を聞くと、生前母と旅行に行くと、母は物を見ても、ちょっと見ると「はい分かった、次」と次の見物に移ってしまったそうだ。
これは、私も全くそうで、旅行や博物館、美術館等に行ったとき、一つのものをずっと見ていることが出来ない。
2,3分も見たらすぐ次のところに行きたくなる。
「変なところが似ているものだな」と思った次第。

帰りは、池上線、多摩川線、東横線と東急線を乗り継ぎ、横浜駅で京浜急行の乗り換え黄金町で食事して戻る。
ともかく、母の冥福を祈った、とても暑い一日だった。

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