『行人坂の魔物』 町田徹 講談社

行人坂とは、目黒駅から目黒川に向けて下りる急坂で、そこにあるのが目黒雅叙園である。

この本は、お七が身を投げたと言われるお七の井戸から、明治維新後に政商らへの払下げを経て、昭和になり一代で財を作り上げた細川力蔵によって目黒雅叙園ができ、その後の様々な葛藤を詳細に描いたもので、非常に面白い。

江戸時代は細川家の屋敷だったそうだが、細川力蔵はなんの関係もなく、福井から上京して風呂屋の下働き、簡単に言えば「三助」から身を起こしたと言う人なのである。

               

               

昭和6年にできた贅を尽くした目黒雅叙園は、「昭和の竜宮城」とも言われたそうだが、1945年の空襲で焼け、細川氏も亡くなる。

そして、不思議なことに1952年まで7年間社長が不在だったのだ。

理由は、雅叙園は合資会社で、細川氏の妻、後妻、妾、その子、さらに兄弟などの親族からなる同族会社だったので、社長がいなくても不都合がなかったようだ。

一方、1948年からは、大阪の興行師松尾国三氏によって、目黒雅叙園観光ホテルが設立されて、営業を開始したのである。

もちろん、、松尾氏が細川一族の一部を取締役に取りこんでいたからである。

そして、バブル時代にマンションや新館を作るが、バブル崩壊で、債務が邦人銀行から外資のハゲタカ・ファンドに売り飛ばされてしまう。

また、松尾氏が保有していた、大阪の新歌舞伎座、ドリームランドなど、松尾氏の死後の、未亡人と会社専務との争いから、許栄中や伊藤須栄満らのバブル紳士が入って来て、雅叙園観光ホテルの株券を巡っての「コスモポリタン」「イトマン」騒動も起きる。

この間で、池田某は1988年以来姿を消して行方不明になっているそうだ。

一方、雅叙園では、この間10人近くの社長が一族の中から出るが、どなたも根本的な会社再建はできなかった。

もともと乳母日傘で育ってきたプリンスたちが、会社経営の泥沼で、内外の様々な敵と戦う気力も能力もありようもなかったに違いない。

この辺の一族の内紛は、とうてい一度読んだだけでは複雑すぎて理解できない。

そして、最後はハゲタカのローン・スターとの戦いになるが、本当にこのファンドはひどいが、最後の最後で、底地の所有権なしに根抵当権を設定していたと言うのだから、とても信じがたい。

まさに資本主義、金のためには人間はどんなことでもするということの典型だろう。

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