今週は、花見の季節で、会社等で行っている人も多いだろう。
だが、私は他人と花見に行ったのは、3回しかない。
1回は、市役所にいた女性と上野に行ったのと、数年前に横浜の界隈人の河北さんの主催で、伊東さんらと藤沢の引地川のに行った。
もう一つは、パシフィコ横浜にいたときである。
ここでの横浜の掃部山の花見を引率したのが、日本開発銀行から来ていた谷口征三さんで、パシフィコ横浜では次長という肩書きだった。
主に経理担当だったが、会社設立当初は、設立事務もやっていたらしい。
この人は、早稲田の政経だったと思うが、和歌山の出身で、「小林稔侍は俺の後輩だ」と言っていた。
他でも、会社設立の経験があったようで、いろんなところから寄せ集めのパシフィコ横浜では、各自の交流には気を遣っていた。
私たちのような横浜市の他、日本開発銀行、横浜銀行、JTB、NTT、さらに日本鋼管と新日鉄から出向していたのだから、大変だった。プロパー職員は、高木文雄さんらの役員と、市役所でのアルバイトからそのまま固有職員になった女性2人だけだった。
そこで、谷口さんがやったのは、毎日飲むことで、
「なんと言っても、これしかないよ・・・」と、5時過ぎると職場で飲み会を主催するのだ。
だが、横浜銀行から来ていて、谷口さんの下の経理課長をやっていたTさんは、酒が飲めない人で、後で話を聞くと「この宴会が死ぬほど苦しかった」と言っていた。
そして、4月には花見だ、と言うことで、当時は桜木町駅前ににオフィスがあったので、すぐに歩いて掃部山に行ったのだ。
だが、その日は寒くて、すぐに切り上げて、野毛の武蔵屋に行った。
谷口さんの言葉でよく憶えているのは、
「銀行を辞めた定年後は、地方のホテルや旅館の監査役になるのが最高だ」
と言っていた。
「開銀は、ホテルや旅館にも出資しているんですか」と聞くと、
「いくらでもあるよ、パチンコ屋はだめだが、ホテル、旅館は出資しているよ。ホテルは雇用効果が高いからで、1室あたり1人の雇用があるんだよ」とのことだった。
その後、谷口さんも、私もパシフィコを離れ、年賀状だけの交流になった。
それを見ると、九州や中国地方のフェリー会社の重役になっていた。
フェリーも、開銀の出資先だったので、天下りだろう。
数年前に、年末に訃報が来て、亡くなられたようだ。