元首相の羽田攻が亡くなったそうだ、82歳。
この人が、例の省エネルックで神奈川県民ホールに現れたことがある。
それは、小此木内閣成立集会という、神奈川自民党の総決起集会で、小此木内閣というのは勿論冗談で、小此木彦三郎が横浜自民党の中心った時代のことである。
小此木彦三郎は、横浜の材木屋で父親小此木歌治も、横浜市会から国会に出た議員一家の二代目で、今の小此木八郎は三代目である。
彦三郎氏は、通産大臣を務めたが脳梗塞で亡くなり、首相にはなれなかった。
さて、この集会でよく憶えているのは、作曲家黛敏郎の挨拶だった。
黛は、県立一中(今の希望が丘高校)にいて、上級生に小此木氏がいたのだそうだ。
当時は、一中は、西区の紅葉ヶ丘の奥にあったが、空襲で焼け出され、戦後希望が丘に移転した。
黛は、戦時中からピアノを弾いていて、特にフランス音楽をやっていたようだ。
ある時、黛少年は、応援団長の小此木に呼び出され、
「音楽をやっているなど、この非常時に軟弱であり、しかも敵国音楽とはケシカラン(ドイツ音楽だったらOKだったのかもしれないが)」と鉄拳制裁を受けたそうだ。
この時期は、すでに日の丸・君が代になっていた黛敏郎だが、戦時中から戦後のある時期までは、完全な西欧派だった。
いつから黛が右寄りに転向したのかは知らないが、西河克巳は面白いことを書いている。
西河が「お付き合いした芸術家で、一番頭が良かったのは、三島由紀夫と黛敏郎で、こういう頭の良い人は、右翼になるのかな」と言っている。
なかなか頷ける説である。
羽田攻は、比較的普通の人だったようで、晩年も右翼にならなかったのは良いことだったと思う。ご冥福をお祈りする。