筑波山と土浦市


夏休みで、大学時代の友人が住んでいる土浦に先輩と行き、筑波山に登る。
と言っても、ロープウェーで中腹に行っただけだが。

8月15日、東京は35度と猛暑で、茨城も暑かったが、さすが吹き上げて来る風は涼しかった。
展望台からは、晴れてれば東京タワーや六本木ヒルズも見えるそうだ。
だが、霞ヶ浦の名があるとおり、下の平原は一面に霞がかかっていて、全く見えない。
たしかに、三浦半島の観音崎からランドマーク・タワーが見えるのだから、筑波から東京が見えても不思議ではない。

友人から、眼下の平野の膨大な田圃の源水は、総べて霞ヶ浦の水で、それをポンプで揚水し水田に配水しているのだと聞く。
国の農業への補助金や直轄事業は、我々が知らないだけで、実は膨大にあるのだが、その一端を知り、改めて驚く。
そうやって戦後、自民党は農民を自作農として取り込み、保守政権の維持をしてきたわけだ。久保栄の名作『火山灰地』に象徴される全国の小作農たちは、戦後解放され自民党政権支持者になった。これは勿論、彼らにとって良いことだったのだ。

帰り、つくば市を友人の車で通る。
いきなり整然とした幅の広い道路、近代的なビルで、およそ日本的ではない外国が出現する。
西欧の大学都市は、こうしたものらしいが、新宿の雑踏の延長のごとき猥雑大学を出たものには、どうもピンと来ない。
一緒に行った先輩も、「ごちゃごちゃしている方がしっくり来るね」とのこと。
我々はアジア的な感性である。

土浦市に近くなると、桜並木が続いている。
以前は、鉄道の敷地だったとのこと。筑波鉄道の跡地だろう。
関東鉄道は、以前は、常陸平野一帯を鉄道で結んでいたが、今は取手から下妻までの常総線以外はなくなり、バス路線に替わっている。
鈴木清順の映画『刺青一代』で、満州に渡ろうとして新潟から高橋英樹が乗ったのも、確か関東鉄道の線だったと思う。

翌日は、せっかく土浦市に来たのだからと、市立博物館に行く。
昔、横浜に来たアメリカ人に聞いたが、「ある都市に行ったら、まず博物館か美術館に行けば、そこの都市は理解できる」そうなので、私は知らない町に行ったら、博物館か美術館に行くことにしている。
亀城跡にある市立博物館は、人口15万の市にしては立派なものだった。
だが、展示品のほとんどは、江戸時代以前の物である。
江戸時代、土浦は土屋家9万石の城下町で、霞ヶ浦と利根川の水運の結節点として、また水戸藩に対する政治的要衝として大変栄えたようだ。
近代以降は、水運がなくなり、霞ヶ浦の海軍の「予科練」の地として有名になり、その施設も残っていて、そこは前に友人と見に行ったので、今回は行かず。
博物館の展示には、海軍関係はほとんどなかったが、余り触れたくない歴史なのだろうか。

前夜、ホテルのテレビを見ていると、東京の地上波以外のテレビ局がなかった。
タクシーの運転手に聞くと、ラジオは茨城放送があるが、テレビ局はないのだそうだ。ホテルがズルしてUHF局を入れていないのではなかった。
かなり珍しい県である。

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コメント

  1. 茨城に農業学習に。

    茨城に、農業を学びに出かけました。