「相撲は演劇である」

私が言っているのではない。
日本民俗学、芸能史の泰斗・折口信夫先生が、きちんと書いておられるのである。
「この相撲というものは、演劇と関係なさそうなものでありながら、やはり一種の演劇なのである。つまり、神と精霊の争いを表徴するものなのである」 折口信夫全集 ノート編 第五巻 P392

つまり、相撲は、本来神と精霊の争いであり、その年の、あるいは村の豊穣、吉凶を占う神事なのだそうだ。
「一人相撲」という言葉があるが、これは本当にあり、人間が一人で神と相撲を取り、勝った負けたの結果で、その年の農事の吉凶を占うものである。だが、その占いは、大抵は初めから決まっていて、村の意向に沿うような結果になるのだそうだ。
あの大相撲の土俵は、まさに舞台であり、その上に吊り下げられている大屋根とその四隅を巻いている布は、歌舞伎舞台にある一文字と同じ起源なのだ。
だから、演劇である相撲に「八百長」がつき物なのは当然で、その村の農事の吉凶の占いと言うのは、その集団の集合的無意識を表現するものである。
要は、八百長である。
だが、よく考えれば、演劇は常に八百長である。
死者は、毎日死に、ロメオはジュリエットに毎日出会って恋に落ちる。
要は、八百長にも良い、上手い八百長と、下手な八百長があるにすぎない。

私は、相撲については、「観客が望む八百長は許される」という立場である。
昔、貴乃花と武蔵丸が千秋楽に戦い、貴乃花は勝ったがひざを大怪我した。
そして、優勝決定戦になり、そこで貴乃花が勝って優勝し、小泉純一郎お調子者総理が「感動した!」と言ったが、このときの武蔵丸は役者だったと思う。
あそこで、もし武蔵丸が勝ったなら、彼は暗殺されたに違いない。
それが、八百長であり、みなが望む方向に勝負がつくという意味である。
武蔵丸は、かなり力を入れているように見せて、最後見事に負けた。
あれは、良い八百長の例である。
なぜなら、あの日見ていた日本人のほとんどが、貴乃花が勝つ奇跡を願っていたのだから。

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