落語の演出もアクション・カットなのだろうか

野毛の店椿で、招待券をもらったので、横浜にぎわい座の「有名会」に、最近は落語に凝っている山岸伸一さんを誘って見に行く。

前座から、川柳つくし、コントD51、柳亭楽輔、三遊亭円丸、鏡味仙三郎社中、そしてトリは柳亭小袁枝という演者だった。
結論から言えば、一番面白かったのは、コントD51で、最もがっかりしたのは、柳亭小燕枝だった。
小燕枝は、「かけとり」をやったが、少しも面白くなく、二人とも何度か寝てしまった。
山岸さんに言わせれば、「化石だね」とのこと。

コントD51は、おばあさん役の人が最高で、特に足の動きが素晴らしかった。
前後左右に動く際、まるでマイケル・ジャクソンのムーン・ウォークのように、くるぶしから下の動きだけでやる。
すごい芸だ。
また、すべての動き、相当に芝居がかった臭い仕種のすべてが決まっている。
この人は、大衆演劇を相当に経験した人だろうと思うが、ネットで調べてみると、女優朝丘雪路のところにいて、芝居をずっとやっていた人だとのこと。1970年代に、朝丘は明治座等で座長芝居をやっていた。
だが、あるとき有馬稲子と争わされ、電車の中でも切符を売ったという有馬稲子に観客動員で負け、それからあまり大きな公演をしなくなったようだ。それは、演劇に対する執着の差(勿論、有馬稲子の方が大きい)でもあるのだろう。有名画家伊東深水の娘で、大した苦労もなく芸能界に生きてきた朝丘と朝鮮半島から引き上げて来て、最底辺の生活から宝塚、映画界に生きてきた有馬稲子の強さとの違いでもある。

そして、終了後いつもの椿で飲むが、落語の場合の上手い、下手の差の大きな要素として、落語家がする振りや表情が、映画のアクション・カットのように、きちんと切れているか、否かであるのでは、という結論になった。
言うまでもなくアクション・カットとは、映像のつなぎ方の一つで、被写体の動きの瞬間に画面を切り替え、次の別の角度の画面につなぐ技法である。アメリカのアクション映画は、ほとんどこの手法で編集されている。
日本では、意外否ことに、これが大変上手な監督に山田洋次がいる。
例えば、彼の監督作品の『男はつらいよ』で、渥美清の車寅次郎が何かおかしいことを言い、爆笑を得るシーン。

この際、まず渥美が台詞を言うところを、彼の顔のアップで撮る。
そして、台詞が終わった瞬間に画面を切り替え、渥美の周囲にいる人間全体の画面にして、そこでは全員が笑ってはじけたものにつないでいる。
ここで、実は時間をほんの少しだけ盗んでいるのだが、そのことが画面に飛躍と躍動感を与え、笑いを弾けさせるのだ。
このギャグのシーンを渥美が台詞を言い、周囲が笑うのをそのままワン・シーンで撮ると、だらけた映像になってしまう。
あの愚作、西田敏行の『釣りバカ日誌』の撮りかたは、このだらだらとそのまま撮る方法なので、つまらないのである。

だから、落語の場合も、上手い人は、何か決め台詞を言ったとき、演者は顔の方向や表情を鋭く替え、アクション・カットのような技法をとる。
「それが出来るか否かが、上手下手の差であるのではないか」と山岸さんと話したのである。
また、最近のロック関係のライブについても色々聞く。
私は最近は、全くコンサートやライブに行っていないなあ。
イタリアの大歌手ミーナの特別番組がBSハイビジョンで放送されると言うので、9時過ぎに別れる。
山岸さんは、アイルランドの音楽のみならず、イタリアのポピュラー音楽の日本での第一人者なのである。

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