檀原照和さんから、芝居の見方についていろいろと書かれたので、コメント欄では書きにくいので、ここに書くことにする。
昔のものまでお読みいただき大変ありがとうございます。
ついでに2000年に出た、私の『いじわる批評、これでもかっ!』(晩成書房)も読んでください。
ネット書店にも出ているので買えますが、横浜市中央図書館にもあります。
そのときの後書きにも書きましたが、私の見方は、一言で言えば、文化・芸術における消費者主権の確立です。
随分と硬い表現ですが、現在ではあらゆる分野で、生産者よりも消費者、享受者の立場が尊重され、そこに立った見方がなされています。
東京電力の値上げ問題でも、東電と言う生産者ではなく、一般市民の消費者の立場が第一に尊重されるべきだとマス・コミでも主張されています。
でも、日本の芸術、文化の分野では、相変わらず生産者主権が支配的で、批評もその立場でされています。
批評家の多くは、アーチストか、マス・コミなどの関係者で、その意味では生産者側の人間です。
例えば、英文学者の小田島雄志は、演劇の批評に当たっては、
「芝居をしている者、特に若い人たちは、大変苦しい状況で頑張っているので、できるだけ前向きに、悪いことを言わないようにしている」と以前、朝日新聞の談話で言っていました。
こんなバカな話があるでしょうか。
私たちが、ラーメン屋に行ったとします。
すると親父から、「今日は、まだ修行中の者が作ったので、まずいけれど我慢して食べてくれ」と言うでしょうか。
もし言われたら「タダならいいけど」と答えるでしょう。
こういうバカげたことが平然とまかり通っているのも、かつて日本では芸術の絶対量が不足していたからです。
アーチストは、偉くて大先生だったのです。
でも、バブルを経て、今では芸術は、むしろあふれかえっています。岸田戯曲賞など、粗製乱造の典型です。
本来、生産者も消費者も、表現と言う消費の場では、本質的に対等です。
対等の立場でものを言い、やり取りして良いはずです。
でも、まだそうなっていないのが、日本の文化の現状でしょう。
また、二言目には、「文化・芸術への国や地方自治体などの公共からの助成を、欧州では多額の助成があるのに」ですが、これも完全な間違いなのです。
欧州では、本質的に文化は共通で、どこの国、地域の文化・芸術も欧州全域で享受され、流通されることが可能です。
ですから、欧州の各国、地域は、自分たちの芸術・文化を守っており、そうしないと他からいくらでも「侵略」されてしまうのです。
だから助成も必要なのです。
でも、日本に欧米からの「文化的侵略」から守らなければいけないような分野があるでしょうか。
日本で、そのような外国勢の「侵略」があるのは、映画とクラシック音楽だけでしょう。
かつては、ポピュラー音楽も欧米勢の「侵略」があったのですが、今では若者も外国曲は聞かず、ポピュラー音楽は日本と韓国勢が大半です。
ポピュラー音楽は、アメリカ等の侵略を撃退した数少ない成功例の一つでしょう。
昨年、『スイング・ジャーナル』が廃刊になりましたが、これも元をたどれば、リスナーがアメリカのジャズを崇拝しなくなったことの結果です。専門雑誌は、外国情報の窓口だったのですが、外国への関心が薄れたので、必要なくなったのです。
一面これは良いことでもありますが。
平田オリザのような芝居が面白く見える気持ちもよく分ります。
鈴木忠志も、少し似ていますが、ああいう傾向は、「芝居のすれっからし」が好むものなのです。
言ってみれば、美食に飽きたグルメが、たまには粗食に手を出そうとするようなものです。
その意味で、批評家連中に、平田オリザや鈴木忠志の劇の評判が良いのは、彼ら批評家が、「演劇の美食家」で、豪華絢爛、味の濃い料理に飽きているからです。
私は、いつまででも芝居のただの観賞者、一消費者の立場で見て、書いていくつもりです。
そうして生産者優位を覆して、本来の対等にしたいと思っています。