大島渚の言う、1950年代の「被害者としての日本人」を描いた映画の典型の一本である。
彼は言っていた。当時の日本映画は、日本人を被害者としてしか描いていなかったと。
それは、戦争、貧乏、そして家父長制で、確かに1950年代中頃までの日本の社会はそうした面もあった。
だが、経済の復興と発展に伴い、太陽族に象徴されるように裕福な現実も出て来た。
だが、この三流映画が作られた1955年にも、戦争による悲劇や貧困な階層はいたので、そこに依拠したこうした映画が受け入れられる基盤があったのだ。
話は、1945年8月の奉天に始まる、日本人引上げの大混乱の中で、母の三条美紀は、自分は伝染病で引き上げ列車に乗れないからと、一人娘を貨物列車の日本人夫婦に託す。
その時、洋服のボタンを千切って渡すといういつもの臭い手。
10年後、真鶴に娘の松島トモ子は、育ての母の市川春代と住んでいて、ここも貧困で、市川は貸本屋をやっている。
昔は、貸本屋は今のコンビニくらいあったのだ。近年、ツタヤ等がレンタル・コミックをやっているが、これは著作権法が21世紀になって改正されたからである。その切っ掛けとなる提言を2003年11月に雑誌『出版ニュース』に書いたのは、実は私なのである。
ところが市川は、鉄道の踏切事故で急死してしまい、東京の兄藤原釜足に引き取られる。
彼は大崎駅で売店の売り子をしているが、スリに売上金を取られたりして困窮状態。
住んでいるのは、高砂の土手下で、その土手でハーモニカを上手に吹く靴磨きの少年小畑やすしと松島トモ子は知り合いになる。
この小畑やすしと松島トモ子は、当時の大人気コンビである。
ネットで探せば彼女の写真はいくらでもあるが、右はトミー藤山、あの『オリエンタル・カレー』のトミー藤山である。
三条美紀は、夫はシべリアに抑留中だが、英語を教えていて上流の生活をしている。
彼女も娘の松島トモ子を探すが、その度にすれ違いになるところの常套手段。
最後、松島トモ子がラジオ東京ののど自慢に出て、『赤いカンナの花咲けば』を歌い、司会者が満州で別れた母を捜していると言い、それを喫茶店で聞いていた三条美紀が「はっ」としてラジオ東京に駆けつけて、母娘の涙の対面。
この映画の「凄い」ところは、市川春代が鉄道の踏切事故で死ぬところや、藤原釜足がスリに掏られるような映像的に手間の掛かるところを一切描いていず、台詞で説明していることである。
また、藤原釜足の娘で観光バスのガイドの清水谷洋子は、映画監督の須川栄三と結婚していたことがあるはずだ。
さらに、その同僚で恵ミチ子という女優が出ていたが、多分1960年代にテレビやCMで人気だった恵トモ子の母親だと思う。
彼女は、池上で「K美容室」という店をやっていた。
撮影の伊東英男は、その後若松孝二など、ピンク映画の名カメラマンとなる方である。
いろいろと興味深い映画だった。
衛生劇場