川ごとに文化ができていたことが分かった

昨日は、風邪ひいていたのだが、河北直治さんが主催する「引地川を下る」イベントに参加する。

引地川は、大和市に発して、南下し、相模湾河口近くで大きく右に迂回して江の島の手前で海に注ぐ川である。

相模川と境川の中間にあり、あまり知られていないが、それなりに特徴のある歴史が残されている。

                         

小田急江ノ島線の六会日大駅(むつあいにちだいえき)に集合し、そこからはコミニュテイーバスで、西に向かう。

住宅が点在するが、コンビニがないのは、若者の下宿屋アパートが少ないせいだろう。

まずは、石川丸山谷戸(いしかわまるやまやと)、自然の谷戸が残されていて、ボランティアによる田んぼもある。

日本で水田が始まったのは、こうした河川の比較的上流部の谷戸であることがわかる。先日の茨城の洪水のように大きな河川は大規模な土木工事が必要なので、江戸時代中期くらいまで開発されなかったものなのである。初夏には蛍も飛ぶとのこと。

私の母の実家は鶴見の矢向で、1950年代初頭は、田植えごろには田んぼに蛍が飛んでいたものだが。

そこから引地川を渡って佐波神社に行く。この佐波の表記もいろいろあるようだが、要は周囲よりも高くて、いざというときには避難場所にもなる地に神社が作られたようだ。

広大な大庭遊水地の縁には、熊野神社があった。ここは、大庭城が攻められて時には、堰をせき止めて一帯を水浸しにして敵から守った堰があったところとのこと。

その関守の将の名が、吉田将監と言うのが面白い。

かつて声帯模写の名人桜井長一郎の十八番に、月形龍之介野「将監悔悛の情なきか」というのがあるが、将監というのは悪人の名の象徴なのだろうか。

ここの神社はあまり立派なものではなかったが、本当に昔の自然の神社と池で、大変に趣があった。

この辺から先は藤沢の市街地になり、メルシャンの工場の前の大衆食堂で全員で昼食。チャーハンを食べたがなんと590円とは驚いた。

案内の伊東さんのお話では、下流は時代によって流れが非常に変化しているようで、直に相模湾に注いでいた時もあるらしい。

だが、相模湾には西から廻ってくる海流の流れがあり、自然と川の向きは右に蛇行して現在の形になったとのこと。

江の島の西海岸に出ると富士山が見えた。

かなりの数のサーファーがいたが、どうやら彼らも高齢化しているとのこと。

伊東さんは、スノーボードをやっておられたとのことで、そのスノーボードが始めは邪険にしていたスキー連盟に取り込まれたいきさつなどについてお聞きする。

この日は、花火大会もあり、夕方はまばらだった人間は開始の6時にはほぼ満員になる。江の島の花火は、昔は7月だったが、数年前から10月になったとのこと。

花火を夏のものと思うのは日本だけで、海外では正月にやるのも多く、これはこれでよいと思う。

歩いて鵠沼駅まで行き、藤沢で伊東さん、河北さんと飲むが、どこの店も一杯だった。

この相模の平野には、相模川、引地川、境川があり、それぞれに固有の文化と歴史を持っていた。

それは、以前鶴見良行が、東南アジアをフィールドワークして、東南アジア、特にフィリピンやインドネシアでは川ごとに文化や政治、経済が形成されていたと書いたことに似ていると思った。川が近代以前は最大のルートだったからである。

伊東さん、河北さんのご案内で引地川を堪能できたが、やはり「何事にも先達はあらまほしきことなり」である。

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