フランス国立リヨンオペラ座バレー団公演を見る。
神奈川県民ホール、A席5,000円。
中身は、バッハのフーガで踊る「大フーガ」
シューベルトの『幻想曲』の「ファンタジー」
そして同じくバッハの「ブランデンブルグ協奏曲」の「クロスランド」。
全体で約1時間30分、これで5,000円は高い。
一般に、こうしたコンテンポラリー・ダンスは、従来のバレーやモダン・ダンスが、ある物語や主題の従属物であることを否定して、踊りそのものの魅力に立脚しよとうとする。
演劇で言えば、早稲田小劇場の鈴木忠志が、「演劇は役者の演技そのものに立脚すべきだ」としたのと同じ考えである。
しかし、こうした演技そのもの、あるいはダンスそのものだけを見せる試みは、言ってみれば野球の試合ではなく、打者のバッティング・ホームや投手のピッチング・ホームの優劣のみを見せ、論じることになる。
だから、永久に鈴木は演技コーチであって、劇の演出家ではない。多くの役者があるレベルになると鈴木の下からいなくなってしまうのは当然なのだ。
要は、「すれっからし」の客向けの表現になるわけだ。
日曜日の「おゲイジュツ」の成果は、どうだったかと言えば、
「大フーガ」は1,000円、
「ファンタジー」は、500円
最後の「クロスランド」は全員が肉襦袢を着てぶかぶかになって踊ると言うアイディアと、その批評性に点を入れて、1,500円。合計3,000円がいいところだろう。
しかし、フィナーレでの拍手は鳴り止まない。「おゲイジュツ」を鑑賞させていただいた幸福に客は酔っているらしい。
この程度で観客が満足するから、いつまでたっても日本の文化・芸術はレベルが向上しないのである。
こうしたバレー、オペラ、クラシック等の「おゲイジュツ」に一番私が頭に来るのは、演者が皆「すまし、お高くとまって」演じ、感情の表出が全くないことである。
文化・芸術にとって一番重要なのは、人間的な喜怒哀楽等、自然な感情の表出であり、それがなければ芸術などただのゴミである。