軽演劇とは誰が言いだしたかは知らないが、比較的に言えばアメリカのコメディー映画に影響を受けた喜劇のことだろう。
似た言葉にアチャラカというのがあり、これは古川ロッパが言いだしたものらしい。
さて、今回必要があって3本見たが、残念ながらどれも面白いものではなかった。
最初は、浅草木馬座の『浅草パラダイス』 木馬座夏祭りでの浪曲協会の若手と浅草21世紀の連中による浪曲ミュージカルだったが、浅草オペラから現在までを並列的に描いただけなので、少しも面白くなかった。
本来軽演劇なのに、演者に軽さがないので、まるで重演劇だった。
満員の高齢者は笑っていたが、私はシラケるばかりだった。
この日の第一部は、いろんな人が出たが、中ではスギタ・ヒロシという人の一人コントが唯一面白かった。
これは、腹の中からエイリアンが現れて、スギタと対話するもので、東京コミックショーの「レッドスネーク、カモン、カモン」を一人でやるものだった。
さらに、先代相模太郎の一番弟子だったが、楽屋で酒を飲んで浪曲協会を除名されたという、イエス玉川の神父姿の毒舌は迫力があり、さすがに年期を感じさせた。
驚いたのは、「わかるかな、わからねえだろうな」の松鶴家千とせが、昔と同じアフロヘヤーで現れた時で、「一発屋芸人も大変だな」と同情した。
いつもは地下に下りる神田神保町シアターで2階に上がり、吉本の若手芸人の『俺たちは遊ぶ 俺たちは死ぬ』を見る。
100人くらいの劇場が30人くらいで、ほとんどが若い女性で、ここも笑いすぎ。
話は、ストリート・バンドをやつている3人組。
マッサージ師と実家の喫茶店を手伝っているのとフリーターの主人公。
フリーターがコンビニを首になり、新たに努めたのは、「片付け屋」で、それは孤独死の人間を片付けるものだった。
最後、地方で実業家として大成功している父親に反発して都会に出て来たフリーターが、貧困で孤独死した実の父親に再会するというもの。
そして、一度しかない人生なので、やはり音楽をやろうと再起するもの。
一応、ここには小泉構造改革以後の格差社会の若者像はあったが、ここに芸は存在しなかった。
日本喜劇人協会というものがあり、初代会長はエノケンで、今は七代目の小松政夫、その公演があるというので、三越劇場に行く。
河野洋の作・演出で、小松の他、芦屋小雁、石倉三郎、藤田弓子らには芸があったが、20本近くあったコントは1本しか笑えなかった。
それはヤクザの話で、組長の小松が死のベッドにあり、妻藤田と代貸石倉の3人のもの。
実は、藤田と石倉はできているので、小松に頭が上がらないのだが、意識もうろうとしている小松が、いつもえばっているが、本当は小心な男であることがわかるというものだった。
以前、阿佐田哲也が、日本の演劇公演が最盛期だったのは、戦前の日中戦争から太平洋戦争中の時期だと書いていた。
当時は、映画が本数を削減され、多くの俳優、スタッフが実演に流れた。
また、戦時下の増産で、24時間交代勤務労働だったので、常に町で遊んでいる労働者(当時の言葉では職工)がいたので、観客も多かったのだそうだ。
そうなると、今は軽演劇にとってほとんど困難な時代ということになるのだろうか。