森友学園問題で、話題となっているのが補助金返還問題だが、私は補助金返還になるのでは、という案件を国に申請したことがある。
それは、横浜の山下公園の上を通っていた公共臨港線を切る仕事だった。
公共臨港線は、1960年代初めに山下ふ頭の建設以後、当時の経済の高度成長で荷役の取扱量が急増したので、貨物線を建設することになった。
戦前からあった新興ふ頭への線を延長して山下ふ頭に伸ばしたもので、1964年の日活の正月映画『赤いハンカチ』には、建設途中の様子が見えている。
この年は、東京オリンピックであり、大さん橋には外国人旅行客が来るとのことで、地上に踏切を作るのは良くないとのことで高架にして山下公園の上を通って山下ふ頭に行かせたのである。
だが、1980年代末にみなとみらい事業が進行した時、この線が桜木町駅付近で道路と平面で交差していることが問題になり、これを切ろうということになった。
桜木町からは、線は新興ふ頭に伸び、今の「汽車道」で新興ふ頭に行っていたのである。
国の運輸省にこの公共臨港線の廃止を申請したのが、私の港湾局での最後の仕事になった。
最終的には廃止するが、1989年の横浜博覧会の時は、その期間のみ臨時のイベント列車を走らすから宜しくという内容だった。
この時、問題になったのが運輸省からの補助金だった。建設費はおよそ20億円だったのだが、その半分の10億円を国から補助金として貰っていたのだ。
だから、それを廃止すると補助金返還が起きるのではと少々危惧していた。
だが、国も「この公共臨港線については、20年以上も使用されて補助の意義を十分果たしたこと、時代が変わったこと」で返還は不要となった。
流石というか、当然だったのだが。
因みに、山下公園の臨港線の下には、売店があったが、これは野毛山の遊園地を動物園に変えた時に、営業場所をなくした売店を移転させたものである。ここに売店や遊園地があったことは、『赤いハンカチ』にきちんと出てくるので、ご参考までに。