日暮里のDー倉庫という場所で、劇団俳小のアイルランド近代劇の公演が行われた。
アイルランドの近代劇は、大正から昭和初期に日本で非常に人気のあったジャンルで、新劇はもとより新歌舞伎などでも多く上演された。戯曲集も出ていたが、戦後は人気が落ちたためかなくて、今回の劇の翻訳も大正時代の松村みね子のものである。
『谷のかげ』は、J・M・シングのもので、田舎の谷に住んでいる夫婦(勝山了介と吉田恭子)の家に、ある雨の降る夜、風来坊の男(斉藤真)が雨宿りを求めてくる。
近代以前には、どこの国にも、こうした風来坊はいたもので、アメリカのニューシネマではよく出てきたフォーボーである。
日本でも民俗学者・宮本常一の著作によれば、「世間師」などと言われて全国を放浪して生きていた人が多くいたとのこと。彼らは、一種のコミュニュケーター的な存在で、地方各地に様ざまな情報や物品を運んだのであり、村では非常に尊敬されたものなのである。
妻のノラは言う、今まさに夫が死んだところで、用があるからと家を出て行ってしまう。
すると、ベットに寝ていた夫が起きだす。ここは言ってみれば、一種のブラック・ユーモアである。
いろいろあるが、ケチで性格の悪い夫に大人しく従っていた妻のノラは、風来坊と一緒に家を出て行く。
ここには、イプセンの『人形の家』のノラの名をもらっているように、女性の権利擁護、自立への意志があるだと見えた。
ベテラン俳優の斎藤と勝山は、それぞれ役になっていて、当然のことだが、劇的対立と展開が明確に見えた。
2本目は、グレゴリー夫人作の『満月』である。
満月の夜、港町に様ざまな男女が蝟集して起きる劇である。
日本では月は、古代から季節季節の夜を飾る風物だが、西欧では月は不吉なことの象徴である。英語で、月はルナだが、狂気の意味のルナテックは、ここから派生した形容詩である。
劇の柱になっているのは、町一番のインテリとされているハルビー(北郷良)だが、最後彼もただの俗物であることが明らかにされる。
狂気の男女などが入り乱れるが、厳しく言えば、各若手俳優には、それぞれの戯曲に書かれた役に対する「役作り」がないので、群像劇の姿が見えて来ず、結果として何を言いたいのかが、きわめて不明確になっている。
現在の若手俳優は、「自分の個性」なるものを押し出す演技しかできないので、こうした役柄がきちんと書かれている劇では何もできなくなるのである。
こうした近代劇をやってみると、やはり劇が想定した個々の役へのアプローチがないと、劇が成立しないことがよくわかった。
会場のDー倉庫には、初めて行った。
日暮里駅から徒歩10分というのは仕方ないにしても、まず受付へと二階の階段に上がる。
その後、会場へは、また階段で2回も下に降りるという、「反バリアフリー施設」なのには大いに呆れた。
事実、高齢者のみならず若者も、会場内の急階段では何人も躓いていたのだから。
六本木の俳優座劇場が都内一の「最悪劇場」だが、これに次ぐ最悪劇場にちがいない。