16日は、父の墓参りで池上本門寺に行き、実家で兄や姉と食事。
渋谷に出て、エル・スールで原田さんに『フランシスコの二人の息子』はないか、と聞くと「メジャーな国内版は置いていないとのことで」サンプル盤をもらう。
アラブのCD2枚買う。
アラブでは、ドバイのレコード会社が大変興隆し、エジプトEMIの独占を脅かしているとのこと。ドバイは無税なので、経済成長がすごいようだ。
BRICS以後、世界の経済成長の目となるのは、アラブらしい。
銀座線で京橋に行き、フィルム・センターで『天草四郎時貞』
昭和37年、松竹をやめた大島渚が東映に招かれて作った作品。
主演大川橋蔵で、他に大友柳太郎、三国連太郎、花澤徳衛、河原崎長一郎、戸浦六宏、丘さとみなど。
結論から言えば、シナリオ、演出とも完全な失敗である。真鍋理一郎の音楽のみが空しく響く。
脚本の石堂淑郎は、大島から「四郎らの戦いの敗北が決まり、退却するところから書け」と言われたと以前書いていた。
だが、多分それでは映画にならないので、藩の圧制や非道を描くが、なんともよく分からない。
画面がひどく暗く、またカメラがずっと据えっぱなしで、役者を追わないので、誰が何を言っているのか分からず、ドラマが見えてこない。
最後、城方との戦いに敗れ、戦いか和平かの議論と、花澤らの武装放棄の和平派と別れ、天草四郎らが篭城に出発する件は緊張感がある。ここが、始のシナリオだったからだろう。
だが、この映画の持つ「悲壮感」は、果たして60年安保闘争敗北後の当時の気分に合っていたのだろうか。
勿論、私はまだ中学生だったが、悲壮感はなかったと思う。
むしろ、後に加藤泰が東映で映画化した福田善之の『真田風雲録』の描いた、明るさや軽さの方が正解だったのではと思う。
その意味でも、時代とずれていた映画だったと思う。