『生きものの記録』

1955年、『七人の侍』の後に作られた黒澤明作品で、東宝時代の黒澤作品で、一番当たらなかった映画。原因は簡単で、黒澤映画とは、娯楽アクション映画と思っていた観客に対し、娯楽性の乏しい「原爆映画」だったこと。

戦後、10年がたち、戦争を忘れたい日本人にとって、原爆そして戦争を思い起こされるのは、もう御免だったからだ。

鉄工所主の三船敏郎は、原爆の死の灰を逃れるためと秋田に勝手にシェルターを作り始め、家に多大な損害を与えていると、次男の千秋実ら、子供たちから「準禁治産」の訴えを起される。

歯科医の志村喬は、家庭裁判所の調停委員で、小川虎之助、三津田健と共に、調停に当たる。

長男の佐田豊らの描き方も面白く、また三船には2人の妾と子供がいるなど、三船の人間性も興味深い。この時、三船敏郎は、30歳だったのだが、70歳の老人を演じ、見た観客から「三船はどこに出ていたんですか」と聞かれたという。

三船は非常に行動的で、秋田にもソ連の原爆実験からの死の灰が降ってくると聞き、国内をあきらめてブラジルに移住することにする。

ブラジルから農園主の東野英次郎が来て、財産を交換しようとし、さらにその際、

「自分も本当は移住が嫌だったが、家が火事で焼けたので仕方なく決心した」という。

調停は進み、結論は「準禁治産」となる。だが、三船はそれでも貯金を崩して東野との財産交換を進めようとして、千秋らにさらに行動を禁止される。

すると、三船は、今度は工場があるから誰も移住に踏み切れないと、自ら工場に火を点けて燃やしてしまう。この火事跡の工場の美術も凄い。

火事場で三船は叫ぶ「こうなったら移住するしかない!」 だが、清水元や高堂国典らの工員は言う「我々はどうしたらいいんですか」 三船ははっと気づく「そこまで考えてはいなかった」

そして精神病院に入れられた三船は、地球から逃れたと思い込んでいて、太陽を「地球が燃えている」と見舞いに来た志村喬に言う。50億年後には、地球は燃えるのだそうだが。

この時期は、朝鮮戦争直後で、アメリカのビキニの水爆実験の「原爆マグロ騒ぎ」などもあり、原水爆への恐怖は大きかった。

また、別の見方をすれば、一人勝手に行動して家族ら周囲から見放される三船敏郎の主人公の姿は、後に東宝から手を切られて個人で映画を作らざるを得なくな黒澤明の軌跡を予言しているようにも思える。

これの前に、田中友幸が撮影させた8ミリのブローアップ版が上映されたが、田中以外はほとんど誰かよくわからなかった。

長瀬記念ホール OZU

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コメント

  1. 雫石鉄也 より:

    私は、この映画を評価します。
    「核」の恐怖を描いた映画としては、スタンリー・クレイマーの「渚にて」と双璧をなすのではないでしょうか。
    https://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/eb15356366577bbb54f360fbbb017688

  2. なぜ黒澤明が、大変に原水爆を恐怖し、映画『夢』の「赤富士」のように、晩年に至るまでその思いを強く持っていたのかはよく分かりません。
    あえて言えば戦争に行かなかった自分自身の贖罪意識からかもしれませんね。

  3. 1955年には、ブラジルはもちろん、日本にも原発はありませんので、原発云々という発想は無意味です。日本で最初に原子の火が灯ったのはが、茨城の東海村で1957年です。