『崔承喜』

戦前から日本で活躍し、大変に人気を博した朝鮮の舞踊家崔承喜の生涯を描いた記録映画。
非常に緻密かつ綿密な取材で作られていて、日本の伝記的記録映画としても最上の部類だろう。
1911年、ソウルの両班の家に生まれた崔は、朝鮮公演に来た石井漠の踊りを見て感動し、来日して石井の弟子になるが、美人で長身の彼女はすぐに日本の舞台に出ることになる。
多くの日本のインテリがファンになり、川端康成や今日出海らに絶賛されるまでになる。

実は、私は舞踊が苦手で、台詞のない舞踊は、見てよくわからなくても「あれは、こういう意味で踊ったのだ」と言われればそれまでで、反論のしようがないからだ。その意味では、私は思想家吉本隆明の「劇的言語帯は、物語的言語帯の上に成立する」を信じていて、ドラマの見えない表現を認めたくないのだ。
一方、音楽評論家中村とうようには、「外国語の歌は、意味が分からない方がよく理解できる、なまじ意味が分かるとそれに左右されて、歌の持っている本当の意味を理解できなくなる」と言っていて、これも正しいと思うのだが。

崔がしたのは、朝鮮の伝統的な舞踊をどのように取入れて自分の表現にするかで、それは日本のみならず、アメリカ、欧州の公演を経て、さらに強くなったようだ。
寺山修司の劇団天井桟敷の公演が、海外へ行くようになって、逆に日本的な土俗的な表現になっていたのと似ていると思う。
構成は、韓国の舞踊家金梅子が、彼女の足跡をたどる形でなされ、石井獏の息子石井歓、舞踊家石井みどりとアキコ・カンダ、演劇評論家尾崎宏次、さらに韓国や、彼女が戦後の1950年代に中国で舞踊を教えていたので、そこでの弟子や関係者の証言もある。
珍しいのは、戦時中に彼女と夫の安氏が住んでいた杉並の近所にいた人たちの話もあることで、そこではハイカラだが普通の生活をしている芸術家家庭だったようだが、小林亜星がいたのが面白い。
戦後、彼女は共産党員だった夫の安と共に、北朝鮮に行き、文化的指導者となるが、朝鮮戦争では、北朝鮮軍と共に南下し、韓国への攻撃部隊の最前線まで慰問に行ったとのこと。もちろん、彼女は、太平洋戦争中は、日本軍の前線に慰問公演に行かされている。
戦争中は一時行方不明となるが、1950年代は中国の北京で舞踊を教えていて、そのフィルムも挿入されていた。
彼女の映画が、日本でも今日出海監督で『半島の舞姫』が新興キネマで制作されているが、これは不明。
だが、1958年、彼女と夫は、「反金日成」のブルジョワ思想の持主とのことで、粛清されたのだそうだ。
まことに時代と歴史に翻弄されたが、その中で自己を貫いた人生というべきだろう。
2000年に作られた作品で、小林亜星以外の証言者のほとんどは亡くなられているし、監督の藤原智子、さらに製作の一つだった日本映画新社も今はない。
時代の流れというべきだろうか。
国立映画アーカイブ

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