移行職員について


今日は、4月1日で新たに会社等に入った方も多いだろう。
だが、市役所には通常の入社ではなく、ある組織から移行してきた方もいた。

最初に知ったのは、市会事務局に入ったとき、経理の担当者だった方で、この方は競馬事業からの移行職員だった。
戦後、横浜市も戸塚で市営競馬をやっていた。あるときに中止になり、そこから市に移行してきた方が多数いた。
彼には、役所の人がいろいろと遊びに見えていたが、多くの方は、元競馬事業の職員だった。
この方は、中企業の工場の息子で、お金持ちだったので、夜は関内の諸処に自分の金で遊びに行く人だった。
私も、 何度か関内のクラブに連れて行ってもらったことがある。
当時は、まだカラオケはなく、ピアノを弾く叔父さんがクラブを廻って演奏している時代だった。

ある区にいたとき、そこのある連合町内会長は、「私は昔市に勤務していたんだよ」と言われて驚いたことがある。
戦後、地方税制度ができ、その職員として多くの人が雇用された。
その連合町内会長は、数年で辞めたとのとのこと。多くの土地を持っていたので、市の給与など少ないので辞めたのだろうと思う。
また、当時市会事務局には、交通局の市電の運転手から移行してきた方が2人いた。
私が市に入ったのは、1972年4月1日で、その前日に市電は廃止されたのだ。
その数年前から、市電の運転手の方たちが、市の部局に異動していた。これは移行というよりは、配置転換のようなものかもしれないが。
さて、最後に経験したのは、旧国鉄の分割民営化の時のことで、港湾局港営課に、20代の若い職員が国鉄から移行してきていた。横浜市では、100人くらいを受け入れたようだ。
非常にまじめな人で、港営課でいきいきと勤務していた。この方も停年退職になっているだろう。

さて、問題の森友学園で、その事務を担当した赤木さんは、近畿財務局への国鉄からの移行職員だったそうだ。
だから、財務省の本来の職員ではないので、あの問題案件を担当させたと私は邪推するのだ。
これは、一種のいじめだったと思う。
なんともいたましいというか、嫌なことである。

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