官選市長

前の記事で、元横浜市長の半井清(なからい きよし)氏が、昭和34年から1期市長を務めたが、本当は、その後は元助役の田中省吾氏に譲る約束だったが、1期やるともう1期やりたくなり、38年の選挙に自分も出て、自民党は分裂選挙になった、と書いた。
まるで、半井氏が強欲な人のように思われるかもしれないが、人柄は戦前の高級官僚にあるタイプで、なかなか洒脱な方だったようだ。
以前、横浜市会で「市会史」を編纂することになり、編集の先生が半井氏に聞きに行くと、「地方に赴任したら、まず花柳界に行き、その土地の事情を聴取することが大事だ」などと無邪気に発言していた。
まるで、今井正の名作映画『青い山脈』の世界である。

半井氏は、戦時中の「官選市長」である。
指定市の官選市長、あるいは官選の都道府県知事と言うのは、戦前も時期によって多少の変遷はあるが、大体はその地方の議会が候補者を選ぶ。
そして、その人間を内務省に内申する。と、内務省が任命する、という方式だった。
つまり、「お上が選ぶ」制度だった。言ってみれば、天皇が任命する官職だったということだろう。
だから間違っても、テレビ芸人や弁護士が選挙でいきなり首長になることはなかった。

ただ、半井さんが横浜市長になったのは、昭和16年なので、もっと官選色の強い直接の任命だつたかもしれない。
いずれにせよ、もともと半井氏は、内務官僚である。
そして、彼は昭和16年から21年まで横浜市長を努め、戦後は公職追放される。
公職追放期になにをしていたかは知らないが、昭和34年に自民党から出て当選した。
平沼亮三市長の後任である。
平沼市長の孫の一人が、俳優の石坂浩二であるのは、有名だが、確かに顔は良く似ている。平沼市長も良い男で、女性に非常に人気があった、横浜らしいハイカラな政治家だったようだ。

半井氏は、昭和38年の横浜市長選挙で飛鳥田氏に負けた後は、横浜信用金庫の理事長を勤める。
そして、昭和50年代に90代の長寿で亡くなられたと思う。
私も、誰だかは忘れたが、市会議長に付いて磯子のご自宅で行われた葬儀に行った。
磯子プリンスホテルの直ぐ下の広大な邸宅だった。
さすがは、昔の高級官僚だと思った。

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