『キッチン』

『キッチン』と言っても、吉本バナナの小説ではない。イギリスの劇作家・アーノルド・ウェスカーの劇である。
ウェスカーは、1960年代に日本で大変人気の高かった劇作家で、当時「ウェスカー67」とか、68とか、わざわざ彼の名前を付けた劇イベントまであったくらいだ。彼は、イギリスの「怒れる若者たち」の代表の一人で、問題性と抒情性を持った作品はかなりいい。
蜷川幸雄は、今回成宮寛貴の主演で、高橋洋、長谷川博巳など、まるで男の宝塚のようにキャスティングし、演出している。ロビーでは、彼らのファッション写真集まで売っていた。
劇はロンドンのあるレストランのキッチン(昔は『調理場』と訳されていた)での若者たちの話。そこは、イギリス、ギリシャ(実際はキプロス)、フランス、ドイツ、アイルランド人から構成されている。
やや60年代風に言えば、いかに労働者たちは「疎外された労働」を積み重ね人間性を喪失しているか、というのがこの劇の主題である。
今、見るとこうした労働をテーマにした劇を作っていた時代もあったのだな、と驚く。
大部分の観客である若い女性たちは、IT産業をはじめ都市の先端的企業に勤め、それが「疎外された労働」なのだ、などとは考えたこともないだろう。それ程までに、ポスト資本主義社会は、高度化されていると言うべきか。本質を見えないようにしていると言うべきか、私には分からない。
成宮君は頑張っていて、予想外の好演だったが、この劇の主題はどこに行ったの、という疑問は残る。
劇のラストで、経営者の品川徹が、若者たちに向かい「俺はお前たちにきちんと職と給与を与えているのに何が不満なのだ」とつぶやく。
これぞ、50年代後半から60年代の若者の反乱であり、それは米国のジェームス・ディーンや『暴力教室』、イギリスの怒れる若者たちからミック・ジャガー、フランスの『勝手にしやがれ』の不良青年、日本の太陽族から全共闘に至る若者、そしてポーランドのチブルスキーが演じたマチェック、さらにブラジルでボサ・ノバを作りだした若者に繋がるものである。

実は、先月私は民芸の名作『火山灰地』を見たのだが、リアリズム劇としては、大変素晴らしいが、そこで描かれているのが北海道のジュート(亜麻)生産の小作人、大土地所有者、農業試験場研究者等の話で、今日の日本の社会とほとんど関係なくなっていることに改めて驚愕した。それ程までも日本は、農業生産と無関係な国になったのか。
久保栄の劇は、綿密な調査と論考の上に成立したもので、ものすごいのだが、現在の日本とは全く関係ない。
彼が大土地所有からの解放と社会主義革命を託したはずの小作人たちは、戦後の農地解放を経て自民党の強固な支持基盤となり、極端に言えば皮肉にも、かの鈴木宗男になってしまったのである。
唯一関係あるとすれば主人公・梅野靖泰の苦悩で、これは現在も現実と理想の乖離に苦しむ知識人の問題は存在すると思えた。しかも、梅野がやることで、以前は滝沢修がやり恐らくきわめて堂々とした理想の人間像になっていた役が、梅野によって大変矮小な普通の人間になり、それはそれで正しいように思えたのだ。
そう考えると、日本演劇史上で、滝沢修が演じた代表的な役は、今日むしろもっと人間的な矮小な役として再考される必要があるのではないか、という気がしてきた。

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