田村光男の告別式に出て


昨日は、朝から出かけ、外苑前の梅窓院で行われる田村の告別式に行く。
地下鉄外苑前のすぐ前で、非常に大きなお寺。
広い寺の脇に建つビルの5階でしばし待つ。

来ている方は、舞踏の田中泯さんをはじめ、巻上公一さん、さらに梅津和時さんなどアーチストが多く、私はかなり場違いだった。
焼香の時、彼の配偶者だった長田恵子さんの姿を見る。
彼女のお別れのご挨拶では、田村はいつも必ず家にいつごろ戻るかとの連絡があったのだが、21日はなく、その深夜に亡くなったとのこと。
彼は、以前から心房細動があり、手術したこともあり、薬も服薬していたとのことだつたが、深夜の2時か3時頃に発作が起き、血栓が心臓から脳に飛んで脳溢血になったとのこと。
いずれ、音楽、酒を付けたお別れの会をするとのことだった。
皆で冥福を祈り、斎場に行く棺と別れる。
長田さんからは、行くことも言われたが、親族だけのようなので、辞退して戻ることにする。
寺の一隅には犬の墓らしい墓碑銘もあったのは、時代である。
今や子供の数よりも犬猫の方が多いのだから。

外苑前のサブウエィで、ヨコハマ経済新聞の杉浦裕樹さん、そしてかつてアートキャンプ白州を田村から受け継いでやっていた斉藤朋さんといろいろ話す。
店先の外の席で少し寒かったが、様々な話が交錯する。
斉藤さんは、山形の高校の演劇で全国優勝したこともあり、彼の叔母は渡辺えりであるそうだ。
芝居をやるつもりで上京したが、当時は1980年代で、もうアングラ劇も「出涸らし」状態で、失望してダンスに行くことになったとのこと。
唯一残念だったことは土方巽を見なかったことだそうだが、私も見ていないのだから仕方ないことだろう。
土方の最後の公演は西武劇場でのものだったと思う。
斉藤さんは役者もやっていて、黒澤明の映画『乱』では、エキストラの一人として御殿場で寒さに震えたそうだ。
横浜ボートシアターは、今も密かに活動していて、木造船で内輪の公演をやっていることも聞く。
河川法、港湾法の関係で、公にはできないのだが、内輪でやっているとは知らなかった。
10年近く前、宮沢賢治の作品を基にした遠藤琢郎さん作・演出の劇は、私はまつたく感心できなかったが、今進めている「説教」を基にした新作は良いそうだ。
いずれ見たいと思う。
だが、仮面劇は、本来自分を見せたい人種である俳優にとって死ねというようなものであり、役者が仮面劇のボートに定着することは難しいと私は思う。
お二人と渋谷で別れて地下鉄を乗り継いで家に戻る。

どう考えても、田村は早すぎる死であり、「彼のような幅広い分野への目配りのある人間はいないだろう」というのが杉浦さんの言葉。
まさにその通りだと思う。

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