『あらかじめ失われた恋人たちよ』の意味


昨日、清水邦夫・田原総一郎共同監督の『あらかじめ失われた恋人たちよ』の2回目を見て、この映画に籠められた意味がやっと分かった。
それは、前回川崎市民ミュージアムで見たときは、「あらかじめ失われた革命たちよ」で、実にくだらないと思っていた。
だが、今回もう一度見て、作者たちのテーマは、石橋漣司が、饒舌を重ね、さらに聾唖者のカップルである加納典明と桃井かおりも、何も言わずに表しているのは、定住者、普通に地域に住んでいる市民への「放浪の勧め」なのだと分かった。

当時のアメリカン・ニューシネマの主人公たちのように、「市民社会から抜け出して自由に放浪せよ」とこの映画は言っている。
だが、勿論、そんなことが実現できるはずはない。

そして、皮肉なことに、そうした「放浪」を日本的に消化し、一大シリーズとして定着させたのは、山田洋次・渥美清の『男はつらいよ』なのである。
1969年秋に、渥美清と秋野大作がテキヤになって各地を放浪しているラスト・シーンを見たとき、私はとても感動した。
「ああいう風に生きられたらいいな」と。
多分、『あらかじめ失われた恋人たちよ』の作者たちも、どこかでそんな思いを抱いて、あの映画を作ったのに違いない。

昨日の記事の中で、桃井かおりが最初に出た映画と書いたが、間違いだった。その前、フランスからルノ・ベルレーを招いて浅丘ルリ子と共演させ市川崑が監督した
映画『愛、ふたたび』で、浅丘の妹として出ていた。
これには、父親として文学座の先輩の宮口精二が出ていたので、多分その関係だろう。

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