『タンゴ』

最近、これほど不愉快な趣向に会ったことがない。
長塚圭史演出の、ムロジェツクの名作『タンゴ』での長塚の出演である。
『タンゴ』は、1960年代中盤の名作で、日本での上演は見なかったが、戯曲はすぐに読み大変感心した。
今回も劇としてみれば、いい加減なインテリの演出家の父親・吉田剛太郎、不埒で下品な使用人・橋本さとしと不倫を働いている母親秋山菜津子らに反抗し、道徳と秩序を回復させようとする息子の森山未来の演技は終始素晴らしい。
いつもの強面ではなく弱々しいインテリを演じる吉田も軽くて笑える。
全体として、戯曲の持つ論理の反語性と皮肉もよく表現されている。
最後、婚約した娘の奥村佳恵までが、橋本と出来てしまって絶望し、橋本に撲殺される森山という結末の意外さ。
同居している叔父の辻萬長が橋本と「ラ・クンパルシータ」を踊るグロテスクさも胸を打つ。
出来は悪くない。
だが、劇が盛り上がる良い場面になると、長塚が舞台に出てきて、ボーっと芝居を見ている。これは一体どういう趣向なのか。
朝日新聞の劇評では、心やさしい扇田昭彦は、「ユニークだ」と書いていたが、そんなものじゃない、ただ目障りで不愉快なだけ。
なぜ、こんなことをするかと言えば、理由はただ一つ。
長塚が異常なほどの目立ちたがり屋だということ。さらに、この劇に多分、どこか全面的には乗れない長塚がいて、それへのエクスキューズである。
「私は、本当はこのように冷静に劇を見てやっているのですよ」と言う。
演出家が全面的に信じていない世界を見せられる観客は、まことにいい面の皮である。

勿論、操る者が役者と同時に舞台に上がる演劇がないわけではない。
文楽がそうだし、歌舞伎の後見もその例である。
そして、これらにヒントを得て、篠田正浩は、傑作『心中天網島』で、浜村純ら黒子を出し、彼らこそが劇の主人公である、紙冶(中村吉右衛門)、小春・おさん(岩下志麻)を心中に追い込むかのように演出した。本当の劇の主人公は黒子らのように見せた。

だから、この『タンゴ』での演出家長塚の舞台上のうろうろは、何も目新しいものではないのである。
だが、ここではただ単に劇に「水を掛けている」ものでしかなかった。
「マツチ・ポンプ演出」とでも言うのだろうか。
美術の串田和美、音楽の朝比奈尚行、こんな古い連中を何故長塚は使うのだろうか、これも大変に不思議だった。
渋谷シアター・コクーン

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コメント

  1. Unknown より:

    Unknown
    森山未來さんですよね。

  2. さすらい日乗 より:

    ご指摘有難う
    森山未来でした。
    山本未来は、山本寛斎の娘の女優でした。

    森山は、本来はダンサーだそうですが、ここでの演技は大変素晴らしく、その意味でも長塚の演出は悪くなかったのですが、舞台上をウロウロするのが不快でした。