小林幸 死去

今朝の新聞に元横浜市議の小林幸氏(こばやし みゆき)の訃報が出ていた、86歳。

86歳ということは、多分大正15年生まれで(昭和元年は1週間しかなかったので)、昭和の歩みそののものだったわけだ。

神奈川区選出の横浜市会議員だが、日本共産党だった。

1971年に、共産党の議員が一挙に5人当選した時の一人で、以後6期務められたそうだから、1990年代までいたことになる。

私は一度だけ、関西への行政視察の時、新幹線で隣の席だったので、彼の話を聞いたことがある。

列車の席割りも大変なもので、基本的には同じ党派の人同士を座らせるが、同一会派でも仲が悪い場合もあるので、それはよく考える必要がある。

彼は戦後すぐに大学を出て小学校の教師になり、そして日本共産党員になった。

当時、日本共産党の委員長の徳田球一が横浜に演説に来て聞き、大変感激したそうだ。

日本共産党は、歴代党首のほとんどが東京大学出という珍しい党だが、徳田球一は日大卒の弁護士で、極めて庶民的な人だったようだ。

だが、小林氏は、レッドパージになり、すぐに教師をクビになってしまう。1950年ごろのことだろう。

そこで彼は地元でパン屋を始めて、それで生計をたてていた。

みゆきパン店である。

今もやっているのかどうかは知らないが、1970年代、彼の家に連絡に行くと、先生がパン屋の店先に出てきたものである。

性格的には、戦後すぐ共産党員になり、またすぐにレッドパージに合うなど、非常に真面目だが、あまり世渡りの上手くない、硬直化した人だったと思う。

議会での質問も、党から言われたことを忠実になぞると言ったものが多く、彼なりの独自性は感じられなかったが、その意味では人は悪くなかった。

さて、彼が引退した後に共産党から当選されていたのが、今の横浜市長選挙に共産党系の候補として出ている柴田豊勝氏である。

彼も3期当選されたが、最近は共産党は神奈川区でも当選者を出せない。

それは、神奈川区はかつては国鉄の官舎もあり、それら組合の組織票も多かった。

確か、映画評論家で、先日のトークイベントでも私のお相手をしていただいた佐藤忠男先生も、新潟から上京されて最初に就いたのが国鉄で、東神奈川にいたはずだ。彼も、国鉄の人員整理でクビになったようだが。

一応、共産党とは言え、不快な記憶はない、ある意味で「硬骨漢」だった小林氏のご冥福をお祈りする。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする