『蝋燭の灯、太陽の光』

1930年代のアラバマの鉱山の炭鉱夫一家の話で、「炭鉱夫の娘」のロレッタ・リンは、ケンタッキー州だが、このアラバマにも石炭の鉱山がたくさんあったのである。

脚本は、テネシー・ウィリアムズで、彼の長編劇第一作で、セントルイスのセミプロ劇団のために書かれ、自伝でも評判は悪くなかったと書かれているが、共作者がいて、原稿も不明だったので、2004年に再発見されたもの。

                 

まず見て少々驚くのは、抒情的、幻想的なほどの劇を書くウィリアムズが、ほとんど左翼的なストライキ劇を、出発点で書いていたということである。

確かに、『欲望という名の電車』は別として、『ガラスの動物園』のラストのトムの回想には、1930年代以降のアメリカの時代を語っていて、社会的な視点が感じられるのだが。

貧しい鉱夫ピルチャー(千葉茂則)と妻へスター(箕浦康子)には、二人の息子がいたが、長男のジョンは家出して行方知れず、次男のジョエル(西部守)も、父と同様に鉱夫になる。

自分たちは、全くッ教育を受けず、字も読めないので、息子たちには教育を受けさせたいと思っていたが、

「炭鉱夫に教育はいらない。俺はそれで今日までやってきた」というピルチャーの考えで、ジョンは家出してしまい、娘のジョエル(桜井明美)は、父親に反発して町に出て、夜の商売にいくことになる。

そこに、死んだジョンとの間の息子ルークを連れて、ファーン(日色ともゑ)がやってくる。

まず、文盲で電気もなく、ランプ暮らしで、食べ物はマッシュ・ポテトだけというの貧困の局地のような炭鉱夫の生活が凄い。

アメリカでも1930年代までの地方の庶民の生活はその程度だったのだ。

1929年の恐慌後、炭鉱の労働条件はますますひどくなり、その中で鉱夫たちは会社や雇われたギャングたちの妨害を跳ね返してストライキを成功させる。

その中で、自分の息子の幸福だけを考えていた日色ともゑは、高校進学のために貯めていた貯金をストライキの資金に提供する。

その彼女の心の変化、言ってみれば人間的成長が、劇の主題であり、かつて日本にもあった新劇的、プロレタリア的演劇とも言えるかも知れない。

鈴木忠志的に言えば、その劇での感動は、炭鉱夫のストライキ勝利万歳の感動であり、演劇的感動ではないということになるが、それはそれでやはり感動的だった。

音楽が、ところどころ少々佐村河内守的な大げさなシンフォニーになるところもあったが、町の店のところでは、カントリー風になるのは適切だった。このあたりまでのアパラチア山脈周辺は、カントリーの地元なのだから。

いつもは、少年風の感じが多い桜井明美が、夜の女役で化粧をすると美輪明宏そっくりになるのが、おかしかった。

紀伊国屋サザンシアター

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