市原悦子が死んで

市原悦子が亡くなった、82歳とは意外と若いなと感じるのは、彼女は早くから演劇、映画に出ているからだろう。

映画『雪国』がデビュー作らしいが、強い印象を残したのは、1957年の豊田四郎監督の「駅前シリーズ」の最初の映画『喜劇・駅前旅館』だろう。ここで市原は、修学旅行の女学生に扮し、フランキー堺と嬉々としてダンスを踊っている。

豊田監督にはお気に入りで、京マチ子主演の1964年の映画『甘い汗』では、バーの女給の京マチ子と朝鮮人の靴屋の山茶花究を騙し、パチンコ屋を開いてしまうやり手の女を演じている。

これは、豊田四郎得意の皮肉で辛辣なブラック・ユーモアの作品なので、彼女の追悼上映会では是非やってもらいたいと思う。

1970年初めに劇団俳優座で「反乱」があり、原田芳雄、中村敦夫らが出たが、その中に市原悦子がいたのは非常に意外な気がした。これは、『はんらん狂騒曲』の上演になるが、その後は各自がそれぞれの道に行くことになる。

この俳優座の反乱の元凶は、中村敦夫だろうとされたが、実はそうではなく、演出家の塩見哲で、言うまでもなく塩見は、市原悦子の夫だった。

当時、劇団俳優座は、新劇界では一番の後援会を持っていたが、塩見は、それを止めて、制作センターというものを作り、自分がそこに座って劇団の主導権を握ろうとした。

その理由は、塩見は京大を出て俳優座に演出家として入ったが、千田是也の下にいて、ずっと芝居を演出することができなかった。

後に千田は、「ずっと演出助手に置いていたのが反乱劇の原因だったな・・・」と思ったそうだ。

だが、千田是也が塩見哲に演出をさせなかったことは正しい判断だったことが後にわかる。

2004年に天王洲のアートスフィアで、『狂風記』という劇が上映され、塩見哲が演出した。

石川淳の原作で、千田と石川の親交があったために、その弟子の塩見になったと思うが、これが実に凄い劇だった。

会場には、各テレビ局からの花や垂幕が一杯で、観客は『家政婦は見た』のファンらしき女性だった。多分、前衛劇など見たことにないと思われる彼女たちに、一時代遅れのアングラ劇を見せたのだからすごい光景だった。

笑いも拍手もなにもなく、厳かに劇は終了した。

「こんな無謀なことをよくやるな」と私は思ったものだ。

それは、鳳蘭や順みつきなどの宝塚ファンの前で、赤フンドシの男たちが、ちあきなおみの歌で踊るという鈴木忠治演出の帝劇の『悲劇 アトレウス家の崩壊』と同じだった。

この『狂風記』以後、さすがに市原悦子も、劇の演出を塩見にはさせず、彼女の得意の音楽ショーに切り替えたのは、彼女の配慮、愛情だと思う。

戦後の新劇を支えた女優のご冥福をお祈りする。

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コメント

  1. 弓子 より:

    市原さんは銀行家の固いご家庭で育ち
    千葉のトップレベルの県立高校を卒業なさってるそうですね。

    市原さんの後輩にあたる方からの話しですが
    演劇指導をお願いしたら
     『そこは違うわよ、あなた、、、』
    と、素人の人達相手でも気迫のこもった
    白熱した指導をして下さったことがあったそうです。