石原慎太郎は、なぜ古臭い言い方をするのか

2012年に石原慎太郎が都知事を辞めて衆議院選挙に出た時に、私は次のように書いた。

石原慎太郎の本質はなにか。映画『日蝕の夏』で、石原を主演男優として使った監督の堀川弘通は『評伝・黒澤明』の中で次のように書いている。「石原慎太郎主演の珍品であることは確かだった。太陽族の先駆けである石原が、臆病で慎重な男だったのは意外だった」もちろん、当時22歳のときのことである。だが、彼が慎重な男だったと言うのは、彼のそれまでの人生から見れば当然だろう。山下汽船という、船会社としては、決して一流ではないが、それなりの大会社の重役で、戦時中の小樽では栄耀栄華を究めていた石原家が、東京に転勤になり逗子に住むとすぐに父親が急死して、急迫する。二人の兄弟に必要以上の贅沢を与えていた事で、弟の石原裕次郎は、高校生時代から放蕩無頼の生活になってしまう。その中で、家長たる慎太郎は、慎重かつ真面目に自身と石原家の生き方を考えて行かなくてはならなかっただろう。午前中、彼の原作『挑戦』を須川栄三が監督した、三橋達也、司葉子主演の『愛と炎と』を見た。出光興産の社長出光佐三をモデルにした小説で、彼の下でイランから石油輸入を実現させた男のドラマ。ここで描かれているのは、米占領軍に抗して、アラブから石油を輸入し、日本の民族石油産業を奮い立たせた男たちの美しい姿である。これを見ると、石原慎太郎は、三橋達也が演じる、石原より少し年長の戦中派へ、ある種の憧れを持っているように見える。石原慎太郎は、太平洋戦争に行き遅れたことが、最大の悔恨のようにさえ見えてくるのだ。彼が今回も口にした、最後のご奉公等のセリフの古臭さは、戦時中の日本人のものであるが、それに強い憧れを未だに持っているように思える。その意味では、慎太郎は、やはり「「遅れてきた青年」なのだろうか。今では、「怒れる高齢者」であり、田中眞紀子には、「暴走老人」と言われてしまったようだが。三橋達也と恋仲になってしまう、出光佐三役の森雅之の娘の司葉子は、後に映像作家となる出光真子であり、彼女が連れている文化人風の戸浦六宏が演じた男は、美術評論家の東野芳明がモデルだと思う。

昨日行われた「豊洲問題」についての石原慎太郎の記者会見なる「独演会」は、彼の心身の衰えを誰の目にも見せるものだった。これは同情を買う彼の演技だとの説もあるが、そこまでの役者ではあるまい。

この自分勝手男は、かつては『太陽の季節』以後、戦後世代のトップとして生きてきて、特にマス・コミのへつらいかたはひどかったことがここに来て明らかになったと言えるだろう。

一体、マス・コミは何度「石原新党」を言ったことだろうか。

要は、日本国民は「強きに弱く、弱きに強い」のであり、石原慎太郎も強者の代表として君臨してきたのである。

だが、もう彼の時代は本当に終わったのである。昨日も、軽く小池百合子にいなされているほどであるのだから。

中国の賢人は言った、「老いては子に従え」と。

石原慎太郎も、そろそろ政治の世界からは完璧に引退すべきだと思う。

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