『黄色いカラス』

小学校3年の主人公設楽幸嗣は、母親淡島千景と戦後ずっと二人暮らしだったため、9年間の中国抑留から帰ってきた父の伊藤雄之助と打ち解けることができない。鎌倉の大仏の写生でも、黒バックに黄色い大仏様を書いてしまう心理的問題を担任の久我美子は心配する。

間もなく妹も生まれ、ますます設楽は、両親からかまってもらえなくなる。
隣家の田中絹代は、鎌倉彫りを商っていて、淡島も内職をしているが、田中の優しさと幼い養女が設楽の唯一の慰安。
さらに設楽は、その孤独をねずみ、亀、そしてカラス等の動物の飼育に求めるが、きれい好きの伊藤はいよいよ設楽につらく当たる。
伊藤も横浜の商社では、時代とのズレにやりきれない日々をおくっているのである。この戦後社会とのズレは、左翼映画人が終戦直後の民主化万歳から次第に「逆コース」になり、復興して行く日本経済への違和感でもあるだろう。

伊藤が、とうとうカラスを放鳥した大晦日の夜、設楽は「お父さんは死んでしまえ」と家出してしまう。
さすがに伊藤も大雨の中、町中を探すと、設楽は隣の家の田中のところに戻っていた。
正月、設楽と伊藤は互いに打ち解け、鎌倉の海岸で凧揚げを楽しむ。

主人公の設楽少年は、当時大人気の子役であり、小津安二郎映画にも出ているが、ここでも主人公の孤独な姿を巧みに演じており、涙が出た。
実は、この映画は東京池上の大田区民会館で小学校4年で見ているのだが、今回見て憶えていたのは、カラスが放鳥されるシーンだけだった。

昭和33年五所平之助監督作品で、カメラは宮島義勇、制作は歌舞伎座。
ここは左翼独立プロの最後の拠所でもあった。
歌舞伎座は、松竹の子会社として失業左翼映画人を使って、こうした良心的作品や子供向け時代劇等を作っていたが、それもテレビ映画へと次第に移行したようだ。
例によって、戸田春子、島田頓、などの左翼映画の面々も出てくる他、伊藤の会社の嫌な上司が多々良純、同僚が高原俊雄、近所のお婆さんが飯田蝶子とけっこう賑やかな配役は、五所監督の人徳だろう。
音楽が芥川也寸志で、ロシア民族派的なメロディーを奏でる。

鎌倉が舞台で、すでに石原裕次郎の太陽族もいたはずなのだが、その匂いはなにもない。
障子と畳の日本家屋など、当時はまだ戦前と同じ生活が続いていたことが分かる。
テレビはなく、ラジオのみ。
私の実感からも、日本の家庭生活が根本的に西洋風になるのは、昭和40年代以降の経済の高度成長期以後のことだろう。

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コメント

  1. 幸田 学 より:

    その後潰れなかった名子役
    この映画の封切りの時からの設楽幸嗣の大ファンなのですが、伊藤がカラスを放つ場面より設楽が赤い毛糸のシャツを着て現れて伊藤に問いつめられる場面の方が印象に残っています。他に江の電の線路の場面も。設楽を尊敬する大きな理由が、他の、その後の事件(皆川、宮脇など)や事故(小柳徹)で潰れてしまった名子役と違って、目立たない存在にはなったが「その後潰れなかった」良い方の典型例だからです。彼は現役当時には他に小畑やすし、松島トモ子らと対抗するが如く(少し年下ですから直接対抗した訳ではない)資生堂のラジオ東京の番組「パールちゃん」に常連歌手として出ていました。家庭にはラジオだけでテレビはなかった時代の最後の、丁度宮城道雄が鉄道事故でなくなったと同じ頃の事。