原節子と熊谷久虎

あるところで、原節子のことが話題になっているが、2012年に私は、以下のように書いた。

2008年に出た白坂依志夫の「シナリオ別冊」の『白坂依志夫の世界』は、1960年代以降の日本映画界が、セックスとクスリ(麻薬ではなく、ハイミナール等の睡眠薬である)が蔓延していたことを暴露したとんでもない本だが、この176ページにさらにとんでもないことが書かれている。東宝のプロデューサーだった藤本真澄について書かれたもので、彼の告白は、
「原節子に、実は惚れてたンだよ、昔だけどね。できたら結婚したいなんて若気の至で思ったンだが、その時、ホラ、熊谷久虎。
知ってるだろう、姉さんの旦那さ。あの右翼野郎と出来ているってきいてね、それで、あきらめたのさ」
まるで、羽仁進が、左幸子と結婚していながら、彼女が撮影で日本を離れた隙に、左の妹・額村喜美子とできて、結局再婚してしまった事件のようではないか。

藤本真澄が原節子に惚れていたのはいつのことかよくわからないが、互いの年齢から考えれば、戦時中くらいのことだろう。この白坂への告白は、藤本の1979年の死の前年のことで、すでにガンで余命はいくばくもないことを本人が知っていたときなので、嘘ではないだろう。
あの天女のような原節子の美しい微笑の影には、実の姉の夫との不倫という深い苦悩があったのである。そう考えると、原節子は大根役者にように言われることもあったが、随分と演技をしていた役者だったということになる。

また、映画『東京物語』の1か月前には、この熊谷が監督した映画『白魚』での御殿場駅での撮影中に、原の実兄の会田吉夫が、ライトの光に目がくらんでブレーキが掛けられず暴走したSLに線路上にいて跳ね飛ばされて死んでいる。

これは、円谷英二的に考えれば、レールの上に鏡を45度に置き、遠くから望遠レンズで撮影すれば、たとえSLが暴走しても鏡が壊れるだけで、カメラマンは無傷だったはずの、愚かな撮影なのであった。

だが、戦時中に観念的右翼になっていた熊谷には、そんな知恵はなく、実写させる愚を犯したのである。

実兄を目の前で失くし、その張本人は自分の愛人だった原節子は、どんな思いだっただろうか。

その1か月後には、カメラの前に立たせるのだから、映画界は非情なものである。

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