黛敏郎はなぜ急に右傾化したか

作曲家黛敏郎は、元々大変なモダン・ボーイで、戦時中は神奈川県立一中で、当時からピアノを弾いていたので、「軟弱だ!」として、大分前に亡くなられたが通産大臣にもなった小此木彦三郎応援団長に鉄拳制裁を受けたそうだ。
そして、戦後も最初の給費留学生としてフランスに行った西欧派で、ミュージック・コンクレート等の前衛的手法を駆使するなど最先端だったが、1970年代に急速に右翼化した。
これは、我々にはかなり驚きだったが、今日読んだ演出家藤田敏雄の本『音楽散歩、ミュージカル界隈』にその理由が書いてあった。

それは、1960年代後半に日生劇場で、三島由紀夫の作、浅利慶太の演出、黛敏郎の音楽、小沢征璽の指揮で三島由紀夫の劇『喜びの琴』をオペラ上演することになった。
三島は、予定どおり脚本を書いたが、黛は映画音楽の仕事もあり、予定どおりに仕上げることができなかった。
そのことを黛は三島に対して大変済まないことをしたと思っていた。
そこで、三島が自死した後、贖罪の意識があって三島の「憂国記」を積極的に応援したのではないか、とのことだ。
それが、次第に彼が右翼的発言、活動をするきっかけになったのでは、と書いているが、確かにそういう気がする。

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